positive music

より欲しくなってるんだ 『FUNDAMENTAL』psb

『リバティーン』のサウンドトラックを探している、というのだ。
劇場で見たんだけど、それからはどのショップで見てもないのよー、という。本当に見たの? と僕。
ハワード・ショアが音楽をやっていた『戦慄の絆』のサウンドトラックはずいぶんと長い間、発売されなかった。著作権だか版権だかの問題で訴訟がおきていて発売出来なかったというのがその理由。
「劇場で見たのは幻で、『リバティーン』のサントラもないんじゃない?」
彼女にいわれてから僕も探してはいたのだ、ふらりとCDショップに立ち寄ったときに、まあ、ついででだけど。マイケル・ナイマンだから出ててもおかしくはないんだけどなー、売れるだろうし。
ナイマンの場合だと、まずサウンドトラックのコーナーを見て、それから作曲家別のコーナーも見て、次に現代音楽の棚も見なければ、本当に「ない」と確認は出来ない。
作品自体はよかったの? と訊ねた僕に、
「主演がデップで音楽がマイケル・ナイマンで、本当よかったなーって感じの映画」
という評価だけに、興味はある。いやもちろん本編自体にではなく音楽に。まあ相変わらずのナイマン節だろうな、と思うものの。
ナイマンのベストは『数に溺れて』と『ピアノ・レッスン』と『プロスペローの本』だと思っている。他はどれもこの3枚のエピゴーネンだなどといわれれば熱狂的なナイマン信者には叱られちゃうだろうな。
いや、好きだよ、ハワード・ショアの次に、神戸までに観に(聴きに)行ったこともあるよ、本当。

それをこの日、見つけた。
彼女は歓喜の声を上げていたけれど、ほら、キミが劇場で目撃したっていうジャケットとは全然違うじゃないか。やっぱりそれは幻だったのでは?
『リバティーン』のサウンドトラックのジャケットには、デップ様の肖像はおろか、映画本編を匂わすものは少しも使われてなかった。やっぱり版権だかの問題を孕んでるんじゃないかな。映画自体はもう数年前の映画だしな、きっと『チャーリー』人気でまたデップ熱が再燃したもんで、旧作をDVD発売する目途でも立てたんだろう。それゆえの劇場公開に違いあるまい、と意地悪で詮索好きな映画ファンは考える。

彼女が待望のサントラを見つけたそのとき、僕は発売されたばかりのペットショップボーイズの新譜を視聴していた。
前作『リリース』は試聴して、結局、買わずにすませたのだ。
いい曲だなーと思うのは数曲あったが、なんだかどれも似た印象だった。物足りなさそうな気がしたんだ、確か。
それがどうだろう、psbの新作『ファンダメンタル』。いいよ。
のっけからジャーマンテクノっぽい、っていうかデペッシュみたいなダークなイントロで幕を開け、そのまま(デペッシュと違い)悪趣味なほど豪華なメロディが怒涛のごとく押し寄せる。
ディスコだよなー、やっぱり。ハウスだのテクノだのはどうでもいい、やっぱディスコだよ。

CDに限った話ではないにしても、それを購入したときの記憶、あるいはエピソードって大切だ。
大切な記憶になり、それが自分の人生のなかで予期もしなかった意味をもつようになる。
『リバティーン』のサントラを探していた彼女は、実は僕が以前、あるCDをプレゼントしようとふと思い、いざ購入の段になってそれが廃盤になっていることを知り、それからビニルマニア(というほどのものでは本当はない、っていうかCDだからな、ビニルではないが)の血がちょっとだけ騒いで、結局さんざん探しまわって偶然見つけた、あのエピソードの彼女でもある。
そしてそのCDもまたpsbの名盤中の名盤『behaivour』なのだった。まあそこに運命というか世界の不思議を感じ取りたくなったとしてもいでしょ。

何より、女の子と一緒にCDショップに立ち寄り、そこで偶然それぞれが求めていた盤を購入し、同じショップの袋を提げて帰るって光景はなかなか仲良さそうでいいじゃんって話なんだけど。

Give me hope.
keep me sane.
indefinite leave to remain.
All the worlds.that I saw. I went so far away.
And still wanted you more.

希望を僕にくれよ
それから正気も保たせてほしい
ついでに永住資格まで

たくさんの世界を見てきたけれど
もっと遠くまで行くけれど
キミのことをいま以上に、
より欲しくなってるんだ

(『Indefinite Leave To Remain』誤訳:abiko masahiro)



それは星の中を歩き回って 『最悪』 中島みゆき

実は中島みゆきも聴く。正しくは聴いていた。好きな曲がいくつかあって、なかでもこの曲。

それは星の中を歩き回って帰りついた夜でなくてはならない
けっして雨がコートの中にまで降っていたりしてはならない
それはなんにもないなんにもない部屋の
ドアを開ける夜でなくてはならない
間違ってもラジオのスイッチがつけっ放しだったりしては
間違ってもラジオのスイッチがつけっ放しだったりしてはならない

僕はあいつと好きというほどじゃない
あいつは僕を少しも好きじゃない
ゆらゆら揺れるグラスに火をつければロマンティックな音で砕けた


『36.5℃』に収録されている「最悪」(86)という曲。
プロデューサーが甲斐よしひろだということと関係があるのか、アレンジも唄いっぷりもとてもカッコいい。この時期、コアなファンの間ではいわゆるご乱心の時期だという位置づけらしいのだが、このアルバムを最大の問題作だとする人も多いらしいのだが、とても好きだ(アレンジに打ち込みが多用されていることも、それまでのらしさを裏切っているからなのかな)。

「最悪」というタイトルもまたスゴいのだけれど、どうしてこういう曲が生まれてくるんだろう。
巷に溢れる曲を聴いていれば確かにラブソングは山ほどあって、そのなかに失恋した曲も多くをしめて、傷ついた世界を歌詞に、曲にもちこむことは別に珍しくもなんともない。
僕らは暗黙で、たとえ失恋ソングを唄っているからといってそのアーティストなりアイドルなりが失恋中だとは思いはしない。
「最悪」に惹かれるのは、はじめ歌詞の具体性に因ると思っていた。
場面が鮮明に頭に思い浮かぶ。映像的、ということなんだけど、でも最近聴き返したときに、ちょっと違うな、と思った。先に挙げたように歌詞から、ひとりの青年がひどく嫌な出来事に遭遇し、とぼとぼと歩き回って部屋に戻ってきた、という映像ははっきりと浮かぶ。「雨がコートの中にまで」は決まりすぎてダサい、という自分を道化する、茶化す心象だろう。
先の続きはこうだ。

なにもかも失くしてもこいつだけはと昨日のようにギターを抱き寄せれば
ジョークの陰にうずめた歌ばかり指より先に唄いだすんだ


このフレーズ辺りである種類のリアリティは剥奪される。
その代わり別のリアリティが立ち上がってくる。
剥奪されたのは「生臭い現実」であり、獲得されたのは「イメージとしてのリアリティ」だ。
決まりすぎていてダサいのを回避しようとしてんだと、先に書いたけれど、このセカンドコーラスに入ってからのこの部分も、相当にやりすぎている。中島みゆきの歌詞って、この結構やりすぎている部分がよくって、たとえばエゲつなさだったり、過剰さだったり。想像の延長線上に浮かぶものを、そういった現実の細部のこれも延長線上に重ねてみせる、ということで成立させていると思うんだけどどうだろう。
満天の星なのに漆黒の夜のなかを、女の無神経に打ちひしがれて部屋に帰りつく。
そこには何もない。
自分を卑下したり自嘲したりしながらグラスに火を灯し、ギターを引き寄せ、何も考えずにただ唄う。
そういった場面のやりすぎのダサさを、ここでは日常の細かさではなく、これも歌い手自身の自嘲という方法で描ききっている気がするの。ああ、そうそう、もうひとつの客観性獲得の方法は、唄われているのが男の心情なのに、歌っている中島みゆきが女だってことか。
異性を発言主にして何かを描くと、結構、いいにくいこともずばずば言えちゃう。

僕は誰かに電話しなくてはならなかった 『ジギー・スターダスト』

I had to phone someone so I picked on you
僕は誰かに電話しなくてはならなかった、そうもちろんキミを選んだ

グラムロックの名盤『シギー・スターダスト』をついに買った。
自分にとって欠かせない、聴いたことで何かが(それはセンスの場合が多いが。大仰でも哲学と呼んでもいい)変わる、そんなアルバムが何枚かある。
ほとんどは学生の頃に聴いたアルバムだ。
『ジギー・スターダスト』はそんな1枚になりそうな気がする。
撃たれるような感覚と身に染みる何かがあった。
衝撃はカッコよさで、染みてきたのはセツナサかも。先に引用したのは『スターマン』の1フレーズ。
ずいぶんと前のことだけれど、NHKで来日したボウィの「SOUND+VISION」ツアーの映像を見た。そのときに聴いている。
カッコいいってスゴい。

この夜、家に帰ってから小説を書く。
プロットは昼間にほぼ完璧に出来ていた。書き出せば波に乗れそうな感じもする。
そう思って1時くらいから書き出す。負けん気も働いて快調に進む。が、不意に『ジギー・スターダスト』が聴きたくなって、そうなるともう誘惑に勝てない。
音楽を聴きながら書ける小説もあるし、書きながら聴ける音楽もあるけれど、今夜の小説もアルバムもそうではなかった。
コンセントレーションを働かせて書きたくもあり、襟を正して聴きたくもあり、で結局、誘惑に負けてしまう。執筆挫折。眠いクセに、真夜中、ボウィの歌を、声を聞く。
詞が結構、セツナイ。それが夜中にひとりで聴いているとより、グッときちゃう。

『HELP!』 

中学生のときにコアなブリティッシュ・ロックばかりを聴いていたのだけれど、THE BEATLEを聴いたことはなかった。普通と逆らしい。
週に2度、妹に勉強を教えに来ていた近所の家庭教師の兄ちゃんに、「ビートルズってエエの?」といまから思えば不遜で世間知らずな質問をしたのだと思う。
その兄ちゃんは翌週の授業の日に、『サジェント・ペパーズ』と『ホワイト・アルバム』を持ってきてくれた。LPレコードだった。
この兄ちゃんはそれよりも以前、僕がサザンオールスターズを聴き始めた頃にもそんな話をしたら、『タイニイ・バブルス』と、何枚かのepを持ってきてくれたことがあった(だから実家には『気分しだいで責めないで』や『いなせなロコモーション』なんかのシングルがこれもレコードである)。
ビートルズのその2枚のアルバムも、兄ちゃんは、
「やるわ」
といって僕にくれた。
しばらく聴きこんだんだけれども、正直、好きにはならなかった。『Back in the U.S.S.R.』くらいかなー、印象に残ったのは。まだ時期が尚早だったのだろう。多分。

その僕がカラオケで洋楽タイムになるとなぜ『HELP!』を唄うのか。
ずいぶん前に、まだTVが面白くって、ロックが市民権を得ようとあれこれやっていて、そしてロックらしさを保っていた頃。ロックがこれほどまでに無茶苦茶な消費をされていなかった頃、
日本テレビの企画だったと思うが、『メリー・クリスマス・ショー』という特番があった。
この辺、やや記憶も曖昧なんだけれど、桑田圭祐と吉川晃司がメインで企画を立ち上げ、いろんなミュージシャンが参加、いろんな曲のカバーをいろんな組み合わせでやる、という、まるで『堂本兄弟』の、いやその前番組ってなんだったっけ、まあ、その元ネタみたいな番組があったのだ。80年代の終わりだか半ばだかに。
冗談みたいだが、RCサクセションやスライダースなんかも出てた。爆風スランプなんかも出てたな。
そのなかで、吉川とボウィが『HELP!』をカバーしていたんだ(スゴいだろ)。
まだCOMPLEXをやる前である、もちろん。ボウィはまだ解散してなかったし。
え、そんな夢の組み合わせを信じない? いや実は昨日の夜中、WEBサーフィンをしていてそれを見つけた。コチラ
結構重いし、PV自体は時代を感じさせる古さ、いま見ればかなりダサい映像なんだけれど、音はめちゃめちゃカッコいい。

ビートルズの入り口がオリジナルではなくカバーの『HELP!』だったのと同様、ストーンズも実は入り口はカバーで、それはルースターズの『UNDER MY THUMB』だった。
これもめちゃめちゃカッコいい。

高校生になったとき、『HELP!』の一件があって、再びビートルズを聴こうと思った。
同じブラスバンド部でチューバを吹いていたスズキ君が見かけによらずコアなビートルズファン(というかマニア)(というかオタク)だということを知っていたので、彼から伝授してもらうことにした。
手ほどきを願い出た翌日にはもう、90分テープ(そう、当時はウォークマン全盛でみんなテープをかしゃかしゃいわせていた。授業中も)2本にびっちり、彼の選曲したビートルズが入って手渡されたのだった。

ビートルズの曲を何曲でもいまでもソラで唄えるのは、このスズキ君の愛のこもったテープのおかげである。

明日のことは誰にもわからない 『トゥナイト』 佐野元春

子供の頃は気が弱くっていいたいことを的確に伝える言葉も、相手を捩じ伏せる言葉も持ってなかった。足も遅かったし、要領もひどく悪かった。なにより不細工だという劣等感がひどかった、まあそれはいまも拭えずにあるけれど。
いつの頃からかひどく負けん気が強くなり、狡くなり、自分ではその自覚はないけれども口が上手くはなったらしい。
(どうでもいいけど、小学校の頃までは無駄口を叩いてばかりいた。中学校からそれほどでもなくなり、いまは無口に見られているらしい、そうではないことは近くにいる人ならみんな知っている。皮肉も冗談もいえるようになった、この2つとも高等技術だものな)

何も出来ない、ということは、何も出来ないということを自分で知るということは、自分から何かを獲得したいという希望を失わせ、獲得しようと努力する気さえも殺す。
自信がない人間は鬱陶しい。根拠のない自信ばかりがある人間は醜い。
本当のところは自信なんかどうでもよくって、やれればいい。実行して、成功出来ればそれでいい。
プレッシャーがあろうがなかろうが、そんなことは自分だけの小さなことだ。
他人は表面しか見ないしな。


何かに取り組むとき、まあ、そんなふうなことを考えて躊躇を振り払うこともあるよ。
表面しか見ない、内面は見えない。なのに内面を見たいと思う。心の底ではとてもいい加減に考えていて、でも表面的には親切で、助けてくれる。それでいい、とは思わないらしい。
こちらのことを誠心誠意思ってくれていても、しょちゅう嘘をついて約束を破って碌に仕事もしないで他の異性と外泊するような人って、どう?

まあ、もちろん僕だって、他人の内面に囚われているんだけれども。
それで懐疑的にもなるし。でも試されるのはゴメンだなー。

いろいろ考えさせられることがあって、それはすれ違いについてなんだけれど、意図的なものであれ、まあ僕としては、取り返しがつかなくなることを恐れたわけで。

そんな最中、カラオケに行く機会が不意に訪れて、行った。
佐野元春を最初に唄いだしたのは僕で、それもなんでだったんだろう、理由も脈絡もなく不意に唄いたくなって入れた(『I'm in blue』だった)。そしたらなぜかみんな佐野元春を入れだした。
ちなみに、こんな話は多分、どこの日記でもしたことがないと思うけれども、僕は初期の佐野元春が結構好きで、ナイアガラトライアングルⅡも好きで、そして1度は某有名メルマガから依頼も受けて、かなりクールな佐野元春論も書いたことがある。
(ちなみに、はっぴえんどについても書いたことがある。『さがな。』の話です)
『I'm in blue』は吉川晃司が、デビューして間もない時期にリリースした1stアルバムでカバーしていた。そのすぐ後に元春自身の曲としてCMでも使われていたが。
誰かが『トゥナイト』を入れた。

雨あがりの街に
灯がともる
走りすぎてゆくタクシー
西行きのバスのクラクション
君に抱きしめてほしい
ニューヨーク…


僕はぼんやり、数日前の誰かとの電話のやりとりを思い出していた。
軽く口ずさみながら、本当に軽く、

君の身がわりに その深い悲しみを
背おうことはできないけれど
Baby Baby 明日のことは 誰にもわからない
Take my hand(だから僕の手をとって) 目を閉じないで


で、ハッとした。
その人に合わせて唄っていた自分の声が上擦ったのが判った。
そのフレーズはどちらにだって受け取れた。
ネガティブにも、ポジティヴにも。
「明日のことは誰にもわからない」
歌詞の流れからいえば、「君」は深い悲しみを背負い僕はそれを代わりに引き受けてやることは出来ない。でも、「明日のことは誰にも判らない」のだ。
背負うことはできない、の続きに「けれど」がついている。

どういってもいいわけ、あるいは詭弁に聞こえるとは思うけれども。
そう唄われたとき、それがひどく強い光を放つフレーズに思えた。当たり前のことだが真理だと思った。
こういうと本当に詭弁でしかなくなるんだけれど、それだけのことはちゃんとするよ、と、まあ、そんなことをふと考えたりもして。
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