『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は、一人ひとりが丁寧に死んでいく映画だった。
かつての、ホラーの貴公子などと呼ばれていた頃のクローネンバーグなら、その殺戮のプロセスを克明に描くことにだけ腐心したのかも知れないが、丁寧といったのはそういう意味ではない(度を越した細部描写のリアリティは相変わらずだが)。
人が死ぬ度に、その殺人の現場に立ち会う度に、それがどれだけ大変な事態で、その結果、人生を左右されたり、運命に翻弄されたりするのかという点に重点が置かれている。
ひとつの暴力、ひとつの殺人行為の与える影響の大きさ、その惨さ、取り返しのつかなさを丁寧に追った、そういう映画だった。
主人公トム・ストールは、面白半分の殺人を過去に、どうやら数多く犯しているらしい、いまは平凡な一市民でよき家庭人なのだが、かつて犯した殺人の過去が不意に芽吹き表出し、現在の自分を狂しにくる。
きっかけは、自分の店で雇用している女性店員を助けるための殺人であり(彼女は、トムの「殺人」によって生命を救われた)、その殺人のためにトムは英雄扱いを受けるようになり、そして過去の殺人が彼の現在を脅かしに訪れ、過去の殺人が現在のサムの家族を絶望に落としいれ、それを回避するためにトムはまた、過去からの訪問者たちに対して「殺人」という手段で対峙せざるを得なくなる。
かつては暴力がスペシャルな行為として、「人の頭が破裂するところなんか普段、見ることないでしょ? だから特別に、よく見せてあげますよー」といった悪趣味なサービス精神旺盛(公開解剖みたいな、アカデミックな感じが多分にしたのは、彼がやっぱりインテリだからだろうな)の映画を作っていたという印象があるのに、…。クローネンバーグは変わってしまった。
でも本当にそうだっけ? 本当に変わった?
人体破壊の細かなプロセスを見せることも、精神崩壊のこまかなプロセスを見せることも、きっとこの人の思考のうえでは同じなんだろう。
ただそのゴールが、結末が、これまでの多くの作品群と『ヒストリー・オブ・バイオレンス』:とでは大きく異なるように思う。
巷に後味の悪い映画は多い。でも、観ている間はずっと殺伐としていてダークで暗いのに、終わってからの印象はよかった。安堵を感じた。こういう映画ってあまりない。
『クラッシュ』のラストカットはある意味、融和でありそれまで出なかった宙ぶらりんの解答が出たという意味では、ハッピーエンドなんだが。そう、クローネンバーグの映画って、ダークハッピーエンドって感じがする。『デッドゾーン』もそうだろう、ある意味ではハッピーエンド。
『戦慄の絆』からクローネンバーグ・リスペクトの僕には、『戦慄』が自己愛の映画、ベスト2だと思う『クラッシュ』がテクノロジーとセックスの映画、そして今回が暴力と家族の映画、という位置づけで、ただその描き方が先に述べたように、毎回のごとく緻密で濃密すぎて他の監督の映画とはずいぶん別の種類の作品になっていて、そこがどうにもたまらないんだけど。
そうか、あまり変わっちゃいないのか。手法としては。
緻密に、そこまで? とこちらが躊躇するくらい深く描こうとするところとか。
最後に救済を与えたところが、というより、いつになく啓蒙的なところが、らしくない、という印象を与えたんだな。
この時代、作品を発表するということは、自分の意志とはかかわらず、どうにも政治的にならざるを得ないんだよ、とクローネンバーグ先生ならいうかも。
人殺しが上手だ、という科白がとても印象に残る。
これまで多くの映画が、人殺しを上手に見せようとし、上手に人を殺せるものをヒーローとし、上手に人を殺せるものをカッコよく描いてきたが、それがどれほど恐ろしく迂闊なことだったか、とはたと気付かされる科白だった。
かつての、ホラーの貴公子などと呼ばれていた頃のクローネンバーグなら、その殺戮のプロセスを克明に描くことにだけ腐心したのかも知れないが、丁寧といったのはそういう意味ではない(度を越した細部描写のリアリティは相変わらずだが)。
人が死ぬ度に、その殺人の現場に立ち会う度に、それがどれだけ大変な事態で、その結果、人生を左右されたり、運命に翻弄されたりするのかという点に重点が置かれている。
ひとつの暴力、ひとつの殺人行為の与える影響の大きさ、その惨さ、取り返しのつかなさを丁寧に追った、そういう映画だった。
主人公トム・ストールは、面白半分の殺人を過去に、どうやら数多く犯しているらしい、いまは平凡な一市民でよき家庭人なのだが、かつて犯した殺人の過去が不意に芽吹き表出し、現在の自分を狂しにくる。
きっかけは、自分の店で雇用している女性店員を助けるための殺人であり(彼女は、トムの「殺人」によって生命を救われた)、その殺人のためにトムは英雄扱いを受けるようになり、そして過去の殺人が彼の現在を脅かしに訪れ、過去の殺人が現在のサムの家族を絶望に落としいれ、それを回避するためにトムはまた、過去からの訪問者たちに対して「殺人」という手段で対峙せざるを得なくなる。
かつては暴力がスペシャルな行為として、「人の頭が破裂するところなんか普段、見ることないでしょ? だから特別に、よく見せてあげますよー」といった悪趣味なサービス精神旺盛(公開解剖みたいな、アカデミックな感じが多分にしたのは、彼がやっぱりインテリだからだろうな)の映画を作っていたという印象があるのに、…。クローネンバーグは変わってしまった。
でも本当にそうだっけ? 本当に変わった?
人体破壊の細かなプロセスを見せることも、精神崩壊のこまかなプロセスを見せることも、きっとこの人の思考のうえでは同じなんだろう。
ただそのゴールが、結末が、これまでの多くの作品群と『ヒストリー・オブ・バイオレンス』:とでは大きく異なるように思う。
巷に後味の悪い映画は多い。でも、観ている間はずっと殺伐としていてダークで暗いのに、終わってからの印象はよかった。安堵を感じた。こういう映画ってあまりない。
『クラッシュ』のラストカットはある意味、融和でありそれまで出なかった宙ぶらりんの解答が出たという意味では、ハッピーエンドなんだが。そう、クローネンバーグの映画って、ダークハッピーエンドって感じがする。『デッドゾーン』もそうだろう、ある意味ではハッピーエンド。
『戦慄の絆』からクローネンバーグ・リスペクトの僕には、『戦慄』が自己愛の映画、ベスト2だと思う『クラッシュ』がテクノロジーとセックスの映画、そして今回が暴力と家族の映画、という位置づけで、ただその描き方が先に述べたように、毎回のごとく緻密で濃密すぎて他の監督の映画とはずいぶん別の種類の作品になっていて、そこがどうにもたまらないんだけど。
そうか、あまり変わっちゃいないのか。手法としては。
緻密に、そこまで? とこちらが躊躇するくらい深く描こうとするところとか。
最後に救済を与えたところが、というより、いつになく啓蒙的なところが、らしくない、という印象を与えたんだな。
この時代、作品を発表するということは、自分の意志とはかかわらず、どうにも政治的にならざるを得ないんだよ、とクローネンバーグ先生ならいうかも。
人殺しが上手だ、という科白がとても印象に残る。
これまで多くの映画が、人殺しを上手に見せようとし、上手に人を殺せるものをヒーローとし、上手に人を殺せるものをカッコよく描いてきたが、それがどれほど恐ろしく迂闊なことだったか、とはたと気付かされる科白だった。