2006年04月

みんな迂闊だった/ 『ヒストリー・オブ・バイオレンス』

『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は、一人ひとりが丁寧に死んでいく映画だった。
かつての、ホラーの貴公子などと呼ばれていた頃のクローネンバーグなら、その殺戮のプロセスを克明に描くことにだけ腐心したのかも知れないが、丁寧といったのはそういう意味ではない(度を越した細部描写のリアリティは相変わらずだが)。

人が死ぬ度に、その殺人の現場に立ち会う度に、それがどれだけ大変な事態で、その結果、人生を左右されたり、運命に翻弄されたりするのかという点に重点が置かれている。
ひとつの暴力、ひとつの殺人行為の与える影響の大きさ、その惨さ、取り返しのつかなさを丁寧に追った、そういう映画だった。
主人公トム・ストールは、面白半分の殺人を過去に、どうやら数多く犯しているらしい、いまは平凡な一市民でよき家庭人なのだが、かつて犯した殺人の過去が不意に芽吹き表出し、現在の自分を狂しにくる。
きっかけは、自分の店で雇用している女性店員を助けるための殺人であり(彼女は、トムの「殺人」によって生命を救われた)、その殺人のためにトムは英雄扱いを受けるようになり、そして過去の殺人が彼の現在を脅かしに訪れ、過去の殺人が現在のサムの家族を絶望に落としいれ、それを回避するためにトムはまた、過去からの訪問者たちに対して「殺人」という手段で対峙せざるを得なくなる。


かつては暴力がスペシャルな行為として、「人の頭が破裂するところなんか普段、見ることないでしょ? だから特別に、よく見せてあげますよー」といった悪趣味なサービス精神旺盛(公開解剖みたいな、アカデミックな感じが多分にしたのは、彼がやっぱりインテリだからだろうな)の映画を作っていたという印象があるのに、…。クローネンバーグは変わってしまった。
でも本当にそうだっけ? 本当に変わった?

人体破壊の細かなプロセスを見せることも、精神崩壊のこまかなプロセスを見せることも、きっとこの人の思考のうえでは同じなんだろう。
ただそのゴールが、結末が、これまでの多くの作品群と『ヒストリー・オブ・バイオレンス』:とでは大きく異なるように思う。
巷に後味の悪い映画は多い。でも、観ている間はずっと殺伐としていてダークで暗いのに、終わってからの印象はよかった。安堵を感じた。こういう映画ってあまりない。
『クラッシュ』のラストカットはある意味、融和でありそれまで出なかった宙ぶらりんの解答が出たという意味では、ハッピーエンドなんだが。そう、クローネンバーグの映画って、ダークハッピーエンドって感じがする。『デッドゾーン』もそうだろう、ある意味ではハッピーエンド。

『戦慄の絆』からクローネンバーグ・リスペクトの僕には、『戦慄』が自己愛の映画、ベスト2だと思う『クラッシュ』がテクノロジーとセックスの映画、そして今回が暴力と家族の映画、という位置づけで、ただその描き方が先に述べたように、毎回のごとく緻密で濃密すぎて他の監督の映画とはずいぶん別の種類の作品になっていて、そこがどうにもたまらないんだけど。

そうか、あまり変わっちゃいないのか。手法としては。
緻密に、そこまで? とこちらが躊躇するくらい深く描こうとするところとか。
最後に救済を与えたところが、というより、いつになく啓蒙的なところが、らしくない、という印象を与えたんだな。
この時代、作品を発表するということは、自分の意志とはかかわらず、どうにも政治的にならざるを得ないんだよ、とクローネンバーグ先生ならいうかも。

人殺しが上手だ、という科白がとても印象に残る。
これまで多くの映画が、人殺しを上手に見せようとし、上手に人を殺せるものをヒーローとし、上手に人を殺せるものをカッコよく描いてきたが、それがどれほど恐ろしく迂闊なことだったか、とはたと気付かされる科白だった。

フレキシブル

「キミの後任として誰がいるのか」
と問われた。
突然ではなかった。あくまで予測として、の前置きつきでだが、なんとはなしにそんな話が出るだろう、とは思っていた。訊ねてきたのは僕の直接の上司で、僕の所属する課のヘッド。
まどろっこしいのだけれど、僕が、別の部署に引っ張られる可能性というのがなくはない、さらに上の人たちが、僕をそちらへ連れ出そうとしている。前にちょこっと書いたけれども、僕やその上司のいる課は、会社のなかでは遊撃隊のような位置づけで、本体の方がそうして人を引き抜いていったり兼任を迫ってきたりするのだ。

僕は、その課のなかの1セクションの、まあ責任を負う係。
僕が外へ連れ出されたとき、その後任がいるのか、という話。
能力的にはいますよー、と僕は答えた。
「いや、能力面だけではなくて」
といわれる。そういった、ひとつのセクションを率いていく資質の話だ、と。

もちろん、僕がそれを十全に備えていて、他のメンバーが備えていない、というわけではない。
あくまで、僕の主観ですが、と前置きしていった。
能力面も配慮も、スケジュール管理能力も、きっと僕より備わっている人はいる。でも、それらより必要なことがあると思っている。
それは想像力だ、と僕はいった。
こういうプログラムを組んだらどうか、こういう教材を作るのはどうか。そういった攻めの姿勢、次にはこれをやろう、その先にはこれをやろう。2年先を見越して組み立てていくマクロな想像力と、いまこの場に足りないものを見つけるミニマムな想像力とが必要なのだと。
それプラス、「それを見誤ったときに責任をとる覚悟」と。

仕事をしくじったり不満があるからといったりして辞めるとすぐ口にするのは狡いと思う。もちろん、若かったらまあそれでもいいだろう、っていうか若いときは僕自がそうだった。業界ゴロだと自分では思っていて、それを恥ずかしくも感じている。
一度、辞めるという言葉を口に出した人間は、「いつか辞めるヤツ、なので重要なポストにはつけられない」と世間は判断し、それでも長く居座っていると「深く考えないで物事をいうヤツ」といった判断をくだされる。
「責任をとる覚悟」といったのは、僕がその上司に、「こうなった場合だけは詰め腹を切る」といったことによる。逆説的に、それ以外のことなら耐える、という宣言でもあるんだけど。
まあ、そういった線引きでことの重要さを自覚するように、自分のなかに楔を打ち込んでいる、そういった気概みたいなものが必要なんではないかな、と思っている。美学? そういわれたらそうかも。

僕はぜんぜん完璧主義者でも、そつなくこなすタイプでもない。
どちらかといえば、どうにかしないとダメだよね、と思って物事をつぎはぎにしか出来ない人間だ。それをパーフェクトに仕上げてくれるのは僕以外の仲間である。
そういった資質というか役回りは、大学で映画を撮影しているときに備わったと思ってるんだけど。

撮影の現場で、用意した衣装が役者のサイズと合わない。どうすんだよ、と気まずいムードになる。監督も怒っている。そんなとき、さっとハサミを取り出し、映らない箇所にザクザクと切り込みをいれ、突然の暴挙に目を白黒させるスタッフにはかまわず、切った箇所に遊びをもたせガムテープでそこを補う。「これで入ると思いますけど」
あとで直してくれるのは美術部のスタッフだ。
あるいは、望み通りの絵が撮れない。監督のコンテではもっと高い位置にカメラを据えることになっている。しかし脚立にも限界があり、クレーンを借りてくるには予算が足りない。
見るとアパートが側にある。そこへ飛び込んでいき、「ベランダから撮影させてくれませんか」と頼みこむ。
そうやってどうにか、思う通りの形にする。

そのかわりではないけど、ダメだったらすぐに後退の判断も交代の判断も下す。
撮影は現場で行われ、現場ではどうにかその場をこなす能力しかいらない。理屈はいらない。けれども、現場に入るまでは、そこでどんなトラブルが起こるかの想像力、もしくは、もっとよく出来るんじゃないかという想像力が、クオリティを上げる。

まあ、そういったことごとの経験が、いまでもいろんな局面で、僕にあれしろこれしろと教えてくれてる気がする。なんにしろやってみないと判らない。やってみればどうにかなる、…ならない場合だって、まあたまにはるけど。やらずに諦めるよりは、やれる方法を考えるほうがいいし、楽しい。

「消滅」した作家

「お訊きしたいことは、三つあります」
と寺内刑事が短い指を三本立てた。
「ひとつ。焦点となる牧場は三箇所と伺いました。坪内牧場とあと二つは何か? ふたつ。どうして、その三牧場に限定出来るのか? そして、みっつ。犯行が夜間に行われるという推理の根拠は何か?」
その言い方が面白くて、つい笑いが八坂の顔に出た。八坂も指を三本立てた。
「ひとつ。和木牧場と門田牧場。ふたつ。いま起こっている事件が、七年前の伝貧流行を再現していると考えられる。みっつ。犯人が犠牲馬の名前を知らせてきている」
「え…?」
寺内刑事が、ぽかん、とした表情で八坂を見た。寺内の横で能代刑事が笑い声を上げた。
「君は…」
と寺内刑事がむっとして言った。
「ふざけているのか?」
能代刑事が、まあまあ、と相棒を抑えた。八坂に向き直り、ニヤッと白い歯を見せた。
「我々が小学生だというつもりで、教えてくれないか。どうだい?」


のっけから長い引用になってしまって申し訳ない。
いま、ずいぶんとひさしぶりに、いまはもういない作家の本を読んでいる。とてもすぐれた作家だった。10年ほどの間に、21作もの優れた長編ミステリーを生み出し、そして消えてしまった。
その作家は文字通り「消滅」したのだ。
ミステリー作家だが、少しもコアではない。だからといって薄っぺらくもない。何人もの作家がその消滅した「作家」のことを「好きだった」とうれしそうに語るのを読んだ。
エンターティメントを本気でやり、1作ごとに趣向を凝らし、読者を楽しませてやろうという気概を感じさせた。語られるとき必ず「良質の」という修辞がつく。
その作家の名前を「岡嶋二人」という。

いま読んでいるのは『七年目の脅迫状』。
岡嶋初期の、競馬を扱った作品のひとつだが、舞台は競馬場ではなく、競走馬を育てる北海道の広大な地に点在する牧場群だ。とても爽やかで、文体は洒脱で、ところどころに粋なやりとりが見られる。
彼らは稀有な、二人組みの作家だった。
「消滅」したというのは、解散してしまったから。

その解散までの顛末を、その片割れ・井上夢人の側から書いた本がある。『おかしな二人 岡嶋二人盛衰記』。長い間探していたが、見かけることはなかった。内容が諸般のいろいろな事情に抵触するのだろう、ファンとしては読みたくない、もしくは、「岡嶋二人」自身にしても本当のところは残したくない醜悪な記録なのかもしれない、…だから絶版になっているんだろう、と憶測していた。
本をめぐる奇妙な偶然が今日もまたひとつあった。
しばらく読んでいなかった岡嶋の作品を読み出したその日、ふと立ち寄った書店で『おかしな二人』を見つけた。
平積みになっていた。文庫で、初版が96年、そして2版06年。買った。

岡嶋二人について好きなエピソードはいくつもある。
たとえば、

「江戸川乱歩賞が、書下し長編を募集し、その優秀作品に与えられるようになって(中略)すべてに共通していることがある。それは、作中に殺人事件があるということだ。
推理小説だから、殺人事件があるのは当然だ、と考える方がおられるかもしれない。だが、そう考える人たちのために、つまり『推理小説には殺人がつきものだ』という迷信を打破るために、この『あした天気……』が、乱歩賞作品であって欲しかった、と私は思うのである。
すでに、この作品をお読みになった方にはおわかりのように、『あした天気……』には殺人事件はない。それどころか、ひとりとして死者は出て来ない。
従って、もしこの『あした天気……』が、乱歩賞を受賞していたら、「江戸川乱歩賞設定以来、初の無殺人推理小説」の栄誉あるタイトルが、この小説に冠せられたのだ」


長いが、佐野洋氏のよせた『あいた天気にしておくれ』の解説文から
この『あした天気にしておくれ』は岡嶋二人の3作目なのだが、実質上の処女作だといわれている。先の解説文からも推し量れるように、江戸川乱歩賞の候補作として残った作品。このとき受賞は逃している。

「共作の場合、プロットが決っても、あとでどちらかが異論を出すことはないか、と私が聞いたところ、
『それは、もう始終です』
と、徳山氏が言った。『その中で最も多いのは、あの程度のことで果して人を殺すものだろうか、という疑問です』
『ぼくらの場合、喫茶店で打合わせをするのですが……』
横から井上氏が敷衍した。『別れてから、いろいろ考えると、あんな動機で人を殺すというのが、納得できない気がして来るんですね。それで、夜おそく相棒に電話をすると、相棒の方も、いや、実はおれも同じことを考えていたんだ……、というぐあいで……』」


これも先の解説文からの引用だが、僕はこのエピソードがとても好きだ。

書店で買った帰りの地下鉄のなかで『おかしな二人』をぱらぱらと読む。
なかなかセツナイ、とういうかエゲつないことまで書かれている。
そしてそのエゲつなさから、井上夢人がとても岡嶋二人を大切にしていたことが伝わってくる。この解説は大沢在昌で、彼はこの本を「まるで恋愛小説みたいだった」といっている。
消滅してまた10年ほどが過ぎて、「05年版 この文庫がすごい!」に突然、『99%の誘拐』が選ばれたとき、誰もが驚いたと思うし、そして誰もが、岡嶋二人を好きだったのだな、と書店の店頭で僕は思った。

くわしくはコチラとか
もしくはコチラ

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会議が終わり、午後から休日。引越しが概ね片付いたこともあり、近隣の散歩・調査をしようと、大阪市立大学近辺へとふらふらむかう。
JR杉本町下車してすぐ。大和川沿いのキャンパス。
引越し前から川向こうの建物や敷地は望めていた。なにやら現代的な建物があるなー、と思っていたら大学の学術情報総合センターだった。いつも眺めているだけだったが、今日はそこに入る。

敷地のなかを歩いている学生はまだ初々しい感じもする。垢抜けてない、というか。
覗き込んだ講堂のなかには、教科書販売のブースが設けられてあった。新入生歓迎のイベントが今週末にあるらしい。
情報総合センターの巨大な建物の1階にあるカフェでケーキを食べた。
(どこに行ってもケーキを食べる。抹茶チーズケーキ、意外だが美味しかった。何より安かった)
カフェのメニューにはビールもある。営業時間は10時まで。いいな。
遠方からの学生が多いからかな、夕食もここですますんだろうか。
カフェの窓から大学を眺めていると、年齢のいった、学生なのか講師なのか、そのどちらでもないのか見当のつかない人が結構いる。「学校」ではなく「街」という印象。堅苦しさの抜けた、世間とちょっとズレた街。
かつては自分もこういう場所にいたくせに、それを満喫してなかったな、とちょっと歯噛みした。
通っていた大学の側に住んでいたのだ。もう15年から前のことだが、その頃、大学を十分楽しんでいたかといえば、きっと楽しんでいた筈なんだけれど、それがとても一面的だったような気がしてきた。

書籍部を探して構内をうろうろする。
もう夕方ではなく夜なのだが、人通りは多い。
モラトリアムだとかなんだとかいわれることにも、そして学生を見ているといまでも嫉妬もするし劣等感を蘇らせもするが、やっぱり大学っていいな。

劣等感は学歴コンプレックスに因るのか? いや。
自分で選んで進んだ大学なので、いまの自分が持つ思考の多くの部分と、知識についてのほぼすべてを獲得したところなので、愛着はある。
ただそのことと、自分の持っている履歴を疑わないということと、自分とはまったく異なる人生のコースや選択やを持っている人たちに嫉妬を覚えるということとはちゃんと両立してしまう。
自分の生徒にも見知らぬ学生にも嫉妬を覚える。
大人になってしまった人には、その人がどれだけ優れていようと、どれだけ優位な立場にいようと嫉妬を覚えたりはしない。劣等感を覚えることがなくはないが、生徒たちに対して抱くことから思えば些細だ。
どうやら、僕はいまの自分には満足もしているし自信もあるらしい。
ただ、他人の「これから」が面白そうだな、選択の幅が広そうだなと思ったときに、妬むみたいだ。まあ、それは当たり前か。

それは星の中を歩き回って 『最悪』 中島みゆき

実は中島みゆきも聴く。正しくは聴いていた。好きな曲がいくつかあって、なかでもこの曲。

それは星の中を歩き回って帰りついた夜でなくてはならない
けっして雨がコートの中にまで降っていたりしてはならない
それはなんにもないなんにもない部屋の
ドアを開ける夜でなくてはならない
間違ってもラジオのスイッチがつけっ放しだったりしては
間違ってもラジオのスイッチがつけっ放しだったりしてはならない

僕はあいつと好きというほどじゃない
あいつは僕を少しも好きじゃない
ゆらゆら揺れるグラスに火をつければロマンティックな音で砕けた


『36.5℃』に収録されている「最悪」(86)という曲。
プロデューサーが甲斐よしひろだということと関係があるのか、アレンジも唄いっぷりもとてもカッコいい。この時期、コアなファンの間ではいわゆるご乱心の時期だという位置づけらしいのだが、このアルバムを最大の問題作だとする人も多いらしいのだが、とても好きだ(アレンジに打ち込みが多用されていることも、それまでのらしさを裏切っているからなのかな)。

「最悪」というタイトルもまたスゴいのだけれど、どうしてこういう曲が生まれてくるんだろう。
巷に溢れる曲を聴いていれば確かにラブソングは山ほどあって、そのなかに失恋した曲も多くをしめて、傷ついた世界を歌詞に、曲にもちこむことは別に珍しくもなんともない。
僕らは暗黙で、たとえ失恋ソングを唄っているからといってそのアーティストなりアイドルなりが失恋中だとは思いはしない。
「最悪」に惹かれるのは、はじめ歌詞の具体性に因ると思っていた。
場面が鮮明に頭に思い浮かぶ。映像的、ということなんだけど、でも最近聴き返したときに、ちょっと違うな、と思った。先に挙げたように歌詞から、ひとりの青年がひどく嫌な出来事に遭遇し、とぼとぼと歩き回って部屋に戻ってきた、という映像ははっきりと浮かぶ。「雨がコートの中にまで」は決まりすぎてダサい、という自分を道化する、茶化す心象だろう。
先の続きはこうだ。

なにもかも失くしてもこいつだけはと昨日のようにギターを抱き寄せれば
ジョークの陰にうずめた歌ばかり指より先に唄いだすんだ


このフレーズ辺りである種類のリアリティは剥奪される。
その代わり別のリアリティが立ち上がってくる。
剥奪されたのは「生臭い現実」であり、獲得されたのは「イメージとしてのリアリティ」だ。
決まりすぎていてダサいのを回避しようとしてんだと、先に書いたけれど、このセカンドコーラスに入ってからのこの部分も、相当にやりすぎている。中島みゆきの歌詞って、この結構やりすぎている部分がよくって、たとえばエゲつなさだったり、過剰さだったり。想像の延長線上に浮かぶものを、そういった現実の細部のこれも延長線上に重ねてみせる、ということで成立させていると思うんだけどどうだろう。
満天の星なのに漆黒の夜のなかを、女の無神経に打ちひしがれて部屋に帰りつく。
そこには何もない。
自分を卑下したり自嘲したりしながらグラスに火を灯し、ギターを引き寄せ、何も考えずにただ唄う。
そういった場面のやりすぎのダサさを、ここでは日常の細かさではなく、これも歌い手自身の自嘲という方法で描ききっている気がするの。ああ、そうそう、もうひとつの客観性獲得の方法は、唄われているのが男の心情なのに、歌っている中島みゆきが女だってことか。
異性を発言主にして何かを描くと、結構、いいにくいこともずばずば言えちゃう。
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