2006年03月

シリアスリー

仕事に限らないが、ただ楽しく飲んだり遊んだりする以外の面を関係のなかに持ち出すと、ただ「いい人」だからではすまない問題が生じてくる。
「いい人」だとか「面白い」だとかではない、その人の持ち味、もっといえば資質、もっと嫌な言い方(かも)をすればそれは…ああ、端的にいおう。
「能力」だ。

約束を守る能力、他人の機微を読み取る能力、責任を完遂する能力。そういったことごとが必要になってくる。秘密を守るのも能力だろう。

1点、ある事情を僕が抱えていて、いやそれは別に不純なことなんかではなく、要は仕事と創作との関連みたいな、二束の草鞋と世間では呼んでいるようなことについてなんだけど、それの均衡がある友人のせいで崩れつつある。
僕にとっては創作は残念なことにもう趣味であり、一義的に考えるべきは仕事なのだが、あまり両立する性質のものではない。なので、本来、ここでも一市井人としての僕が特定されるような書き方は避けるべきなんだけど、その友人が、仕事の場で僕のいろいろについて周囲はばからず話してしまった。それで困ったことになっている。
簡単にいえば、一切の(原稿料の派生する原稿書きの仕事も含め。出演料がもらえるそれほど多くはないパネルディスカッションやコメンテーターといった立場の活動も含めて)創作にまつわる活動をきっぱりとやめるか、いまの職場を辞めるか、という選択を迫られかねない事態になっているのだ。
この場合、いちばんマシな選択肢は、一応は創作活動は続ける心積もりで、いまの職場を離れ、もう一度、今度は他業種に転職する。もしくは、他の地域でこの仕事を続ける、だろう。
公と私のバランスをどうにか保ってきたが、油断した僕が悪かった。
その友人にそういった想像力や、分別がなかったことに気づかなかったのは僕が悪いのだ。
デリカシーを見誤った僕が悪いのだ。

ただ一点、付記しておきたい。
問題を起こしたのは、彼が秘密を守らなかったことではない。もし、僕が、「喋らないでくれ」といっておけばきっと彼は口外するようなことはなかっただろう。問題は、彼にいわずとも理解されると過信し、しかし現実には、彼が秘密の程度を慮らなかったことだ。
あるひとつの事実を秘密とするべきか否かの判断が甘い人がいる、それは人間関係についての配慮の問題だと思うのだけれど、今回、僕はそのことだけは学んだ。

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『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』

世界でいちばんキュートな犬、グルミットが活躍する『ウォレスとグルミット』シリーズは89年の『チーズホリデー』からスタート。とぼけた発明家のウォレスが作り出したロッケットで、彼らはチーズを求めて月に降り立つ。
93年にはスピルバーグをも唸らせたロマンティック活劇『ペンギンに気をつけろ!』が公開。
アカデミー賞短編アニメーション部門受賞。
さらに95年には『ウォレスとグルミット、危機一髪 』が公開される。
ウェンドレンとのロマンスもあり、彼女の飼い犬で悪役のプレストンや、迷い子の羊ショーンも登場。キャラ立ち度合いはパワーアップして、これもアカデミー賞短編アニメーション部門で受賞。
その素朴な味わいとは裏腹に(もちろん、ニック・パークの、アードマンの、ひそかで細やかな労力と愛情との結晶に他なりはしないのだが)栄光の軌跡を描いてここに至る。
日本での人気はイマイチだが、そこがまたいい。

その最新作が公開された。今回kはドリームワークスからの配給、しかも初の長編。
出来はいかほどかという心配もなくはなかったのだが、…。
結論からいえば、杞憂だった。
これまでの短編の総決算的な作りにはなっているが(多少は既視感のあるエピソードもある)、すべてがパワーアップしていた感じ。
もちろん、ただパワーアップしているだけでは納得はいかない。着眼点の鋭さに基づくこまやかさが最大の武器だと思うが、それは少しも損なわれていなかった。

シリーズのなかで『ペンギンに気をつけろ!』がいちばん好きだ。
宝石強盗を働くペンギン・マッグロウのキャラも、それを取り巻くちょっと惚けたやりとりもいい。
アクションも、実際に見たものでないとちょっと信じられないほどスピード感がある。
しかし何よりいいのは、切ないのだ。グルミットの、飼い主を思う気持ちが。

同じビーグル犬であり、世界規模で人気があるという点では優位を保ち続けるだろうが、スヌーピーと比べてしまう。大きく異なる点は、二匹の飼い主への態度である。別にそれをアメリカ的だとか英国イズムだという気はないが、チャーリー・ブラウンに対してスヌーピーがとるシニックな態度と異なり、クレバーで一見よりシニックに見える筈のグルミットの方が、その愛情の示しぶりは深い。

『ペンギンに気をつけろ!』で発揮されていたその愛情が、長編になったらよりパワーアップしていた。
ウォレスが今回はまるピンチは並みのピンチではない、それを救おうと奔走するグルミットはなんとも頼りになる。
今回、特筆すべきはそういった機微に鈍感だったウォレスもまた、グルミットの忠誠心に気づき、互いに助けようと歩み寄り、自らの危機をも省みず、かかんに挑んでいくのだ。運命に(笑)

スピーディなアクションももちろんあるし、今回は3本分くらいのボリュームなのだが、しかし何より、瞠目したのはそのアクションへのスムースな展開、移行。
夜にカーチェイスを演じるシーンがある。暗い夜道で車を停める、ウォレスが様子を窺いに車外へ消える。ひとり(1匹)残されるグルミット、そして感じた気配。ウォレスを呼ぶが返事はない。静寂に張り詰めた危機感。
そこからの展開はなんともポップでダークだった。
クレイアニメーションに限らず、実写でもなんでも、こういう映画が観たかった! と思わせるシーンだった。

火球が降ってくる/『宇宙戦争』

宇宙から火球が降ってくる
ロマンティックだと思うか、否か。絵空事だと思うか、どうか。
ニュースで知ったその前日、偶々だがスピルバーグの『宇宙戦争』をDVDで観ていた。遥か頭上、空高くから高度な文明を有する火星人が降ってくる。彼らは、人類の歴史が始まるそれ以前から地球に狙いをつけそのときのために地下深くに三足歩行の殺戮マシンを埋め、時期が到来するのを待ち続けていた。そしてそのときがついに訪れたのだ。

スピルバーグがこの時期、古典的なウェルズの『宇宙戦争』を題材に選んだのはやはり9・11の影響だという。インタビューでも彼はそう答えていた。
続いて『ミュンヘン』を撮影しているが、彼はこの題材には怯んでいたらしい。政治的なものを直接、政治的に描くことばかりが「冴えたやり方」ではない。しかし、この時代に生きある種類のスペクタクルを撮ろうと思うと、どうしても主義を透かし彫りのように潜ませねばならないのか。
もちろん、娯楽に徹することだって可能だ。むしろ映画はマジック、陰惨な現実を忘れる快楽装置として機能してもよい。
映画作家は、しかし誰しも饒舌になるものなんだろうか。
発言は権利であり、そして映画においてはそれは義務なのかも知れない。

火球のニュースを見て、僕はいまも謎の巨大ロボットが地上に現れ街を焼き尽くす、という続報が入るのではないかと思っている。過度な妄想だといって笑う?

かつてのスピルバーグ映画って、ジョン・ウィリアムスの音楽とワンセットって印象だったけれども、最近はそうではない。
『ミュンヘン』を観ていたときに強く感じた。DVDで『宇宙戦争』を観直し改めて気づいた。
ジョン・ウイリアムスが印象的でなくなったとかそういう問題ではないらしい。『宇宙戦争』を観たとき、あのトライポッドがたてる不気味なスチームに似た音はしばらく耳から離れなかったものな。

主観の操作が/マイクル・ムアコック 『剣の騎士』

もう少し引越しの、本ばかりで申し訳ないけどその話を。
さすがに旧居の本を、dead-bookも含めて取り出して整理してみると、いろいろな発見があった。失ったと思っていた本が出てきたり、買った覚えのない本が実は手元にあったりとか、そういったことだ。
人の記憶って意外と当てにならない? いや僕がときどき幻を見るのだろうか。最近、自分の小説のなかで、「人の記憶ほど主観によって操作されるものはない」というフレーズを用いて、これは結構気にいっているんだけど、なんだかそれを実践している感じ。失ったという記憶も捏造、買ってない、という記憶も捏造、なのか?
いちばん解せなかったのがマイクル・ムアコックの「紅衣の公子コルム」のシリーズ第一巻にあたる『剣の騎士』が出てきたことで、これはもう10年近く前に勤めていた塾で中学3年生の男子にせがまれて貸し、そして返ってこないままになっていると思っていたのだ。その男子は代わりに『スレイヤーズ』を貸してくれたのだった。
で、そのまま、返ってこなかったと思っていたのだが。
どこでそう思い違いをしたのか。返してもらった記憶が抜け落ちているのだろうか、それなら判る。しかし、(返ってこないなー)と思っていた覚えがあるのだ。返してもらったその事実が、何かに紛れてきちんと認識されていなかったのだろうか。

少し違うかも知れないが、幼児にひとつこういう経験をしている。
幼稚園に入る前のことだった。なぜそう覚えているかというと、入園したら使ってもよいと買い置きされていたクレヨンがこの挿話の中心にあるから。
僕はその「入園したら使ってもいい」というクレヨンを、こっそり持ち出し使っていた。サラがうれしかったのだ。ディズニーのキャラクターがパッケージに箱に描かれたクレヨンだったことまで覚えている。
隣室に母親がいて、どうやら気配で僕がその禁止(ただしくはお預け)されているクレヨンを持ち出したことに気づいたらしい。
「それ使っちゃだめよ、戻しておきなさい」
と声が聞こえた。不味い、と思った僕は「はーい」と返事をする。そのとき、クレヨンが音を立てて折れた!
背筋がぞっとするとか、血の気が引くとか、そういう表現が相応しいのはこのときのことだろう。僕は気づかれてはなるまいと、おずおずと折れたクレヨンをしまい、箱をもとに戻しておいた。

この記憶に間違いはない。
それから数日、折れたクレヨンが発覚するときのことばかり考え、怯えていたのだから。

しかし、1ト月程が過ぎ、ついにそのときがやってきても、僕は叱られも責めもしなかった。
なぜなら箱のなかには折れたクレヨンなどなかったからだ。すべて、完全な形で収まっていた。
いまなら解釈はいくらでも思いつく。母親が箱を開け、折れているクレヨンに気づいたのかもしれない。僕が折ったとは思わず、店にクレームをいい、ちゃんとしたクレヨンに取り替えてもらったのかもしれない。
しかし。

記憶というのはどれだけの精度を保つものなんだろう。
いまこのときの事実は客観に基づき進行しているが(クレヨンが折れる、僕が生徒に本を貸す、といった事実)、それは時間の中に収納され、一旦記憶という形に変換されると、主観に彩られてしまうものなのだろうか。
事実は、思い出へと変わるそのとき、主観のリミックスを施されてしまうのか。


ムアコックについては以前、「三島由紀夫を彷彿とさせると思うのは僕だけかしら」みたいなネタで書いたと思うんだけど、今回はさらに違った角度から(いや同じかも)の印象を得た。
その前に簡単な概略を述べると、その時代、5つの次元界を自由に移動できるヴァドハー族とナドラー族がいた。彼らは互いに争ってはいたが、そこに憎しみという感情は介在しない。なにより、彼らは知恵を信奉する大変にスタティックな種族であり、長命で優れた能力と思索に耽る習慣をもっていた。
しかしその頃、大陸ではマブデンと呼ばれる野蛮な種族が台頭を始める。彼らは人類だ。その短命で粗野で荒んだ感情を有し、仲間同士で殺しあう習慣をもつマブデンが、ナドラーを滅ぼし、いままたヴァドハーに襲いかかる。知恵はあるが憎しみや戦い方を知らない、生き物を殺すことの出来ないヴァドハーは、マブデンたちに辱められ、なぶりものにされ殺されていく。
ヴァドハー族最後のひとりコルム公子は、同胞を殺されたことにより悲しみや憎しみを覚え、マブデンに復讐することを考える。…。


ナドラーもヴァドハーも高貴な、いわば貴族だ。と考えると、これは滅び行く貴族が、時代の波にのまれ庶民に駆逐されていく物語ではないか。
そう、僕が『剣の騎士』を読みながら「似ている!」と思ったのは、なにを隠そう、太宰治の『斜陽』だったのだ。

仕掛ける

巨大なものに思考の多くの部分を占められてしまうと、細部への配慮や動きは疎かになってしまうものらしい。
そういう点では人間も、猛スピードで走ってくる車のライトに目を奪われ「あれはいったい何か?」と身をすくませて立ち止まり考えている間に跳ね飛ばされてしまう猫とそれほど変りはしない。

応募してきた人の採用試験に関わることがある。
いま勤めているところでも、それより前にいた塾でも。
面接、それから模擬授業を経て、その人を探る。出来る限り探る。もちろん僕にだって経験があるから面接ではいちばんいい点を、面を見せようと人はする。そして面接というものはある程度の予測を働かせることが出来る。嫌ないい方をすれば騙されないようにしたい。その人が見せる面接官向きの授業の陰に潜む本当の姿を、その人の展開する本当の授業を。
その片鱗を見出そうとこちらも仕掛ける。

面接のケースでは前に書いたことがあるけれども、志望動機に「子供好き」と書く人がいる。
こういう人は子供というのをひとつの資質だと考えているのだろうかという疑問が拭えない。
あなたの好きな子供と、授業で対峙する子供とは何から何まで一緒だとは限りませんよ、といってあげたい。クラスに入れば、好きになる生徒も好きになれない生徒も出てくるだろう。しかし、教員の好き嫌いはこの仕事には一切関係がない、というかあの陰惨な事件以降特になのだが、好きという感情は危険視される。
好きにならなくていいからデリケートになってくれ。パンが好きだからパン屋になる、というタイプの志望動機は必要ではないが、プルトニウムは好きではないが細心の注意をもってして作業に当たらなければならない、といった理解の方が、ここでは有用な気がするなんていったら、これはいいすぎかしら。まあいいか。

模擬授業といってもそれはエントリーしてきた人にはひとつのテストであって、僕はここでも何人かの応募者をふるい落としている(実際にはそれはよっぽどのことなんだけど。極端な時間切れのケースが一度あった)。
先に書いたように面接官向きの無難な授業をこなす人は多い。ちょっと割り切って手際よくやることは可能だ。
そこで僕は常々、ひとつの仕掛けをする。
その仕掛けは試験の採用・不採用に本質的には影響しない。いわば国語のセンス、そういったものを測る仕掛けだ。それをクリアする人を探している。その僕が個人的に仕掛けた装置をクリアできなくても採用する。クリアできれば、以降、その人のことをずっと気にしておく。そして時期がくれば、教える以外の仕事をふっていく。
問題を解くことはある程度のレッスンを積めば出来るが、問題を作ることと、問題の整合性に疑いをもち新たな解法の筋道を探ることは、そういったセンスがないと出来ない。蓄積された知識は関係ない。目には見えない、フィジカルには教えがたい何物かをもっている、そういった人だ。そういった人を探している。

春期講習で入る新人教員の研修をした。
経験者だった。一通りの指導をしたあとで、「何かありますか?」と訊ねると、
「意味調べをさせてもいいですか」
と質問してきた。
僕は(自分でも嫌味かな、と思うが)訊き返した。
「意味調べは有効だと先生は思いますか?」
少しの間をおいても(この問いは予想外だったのだろうか)、はっきりした回答を返してこなかったので、僕は「別にさせてもらってもかまわないけど」と前置きしたあとで、
「ただ辞書で調べた言葉は実際には使いこなせないことが多いので」
とあまり積極的に勧めない旨の答を述べた。
本当に残念なことなのだが、辞書に載っている意味を覚えたところで、それは有効に活用されない。
それよりは、その言葉と同じ意味の(ちょっと違っても日常において使われるケースがほぼ同じであればいい)言葉をいくつかと、それらを使った例文をいくつか、短時間でコンパクトに教員が伝えてやる方がはるかに意味があると思う。

大人なのに、慣用句的な表現を誤って使っている人は少なくない。
調べはしたのだろうなと思う、ただそれを使うケースが実際には少なかったのか、またそれが間違っていると指摘する人もいなかったのか。
そう思うと恐ろしい。いつかそういう誤用が誤用でなくなってしまう、もちろん言葉は変るものだと思うが、それが利便性でなく無知によるものだということが。
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