2006年02月

Made by books and books and…

本の多い家だとは思っていた。押入れの下はダンボール箱をいくつも詰め込んであるのだが、その中身すべて本だ。
でも、これほどだったとはなー。
理由あって部屋の整理をしている。本だけに限らないのだけれど、まずは本から。それがいちばん多いのは明らかなので。作業的には複雑でも何でもない、ただ無駄のないよう箱に詰め込んでいくだけ、押入れのダンボールの分は、また別の箱に移し変えていくだけ。
「これはいいかなー」と思うものがあったら、「捨てる」か「売りにいく」かに分けて、これは片隅に積んでいく。それだけの筈だったのだが。
押入れの外、つまり常づね露出している部分はというと、大きめだがスリムな本棚がひとつ(ここにはCDも並んでいる)、背は低いが収容量は多いカラーボックスがひとつ、雑貨を扱うショップでよく小物なんかをディスプレイしているフレームだけの棚がひとつ(ここには画集なんかの背の高い本が並べてある)、それからそのどこからもはみだしてきて、部屋の壁面に沿って増殖中の雑誌やパンフレットや絵本なんか、…。
数日前からけっして小さくはないダンボール箱に詰め込み始めて、ちょっとビビってきている。
先のスリムな本棚と、カラーボックスだけで、すでにダンボール箱は6ケース、…おいおい、このままでいけばいったいいくつに? と思いながらさらに詰め込んでいき、それでもまだ押入れ「外」の本が7割がたしか片付いていない。「捨てる」本も「売る」本も結構な量がもう出ているんだけどな。

見た目だけで「それほどでもない」と高を括っていたのだが、思っていた以上にそれはこの家にあったらしい。そのすべてを読んでいるのかと問われれば、まあそうでもなく、結構、読まずに「でも、もう読まないだろうーな」との判断から「捨てられ」ていく本もある。
計算を誤り、教室への行きで手持ちだった本を読み終え、本がないと落ち着いて地下鉄にも乗れないというある種類の病気にかかっているから、帰りには、遅い時間まで開いてる小さな本屋に飛び込み適当な文庫本を1冊買う。いざ地下鉄に飛び乗り読み始めるとぜんぜん面白くない、…という記憶もひとつやふたつではないもの。
つまらない本を読むほどの苦痛はないし、そんな義務もないので、まあそういう場合はDEAD BOOKとなるんだが。
しかしそんなものは全体の1割にも満たない。
それではこれだけの知識が僕の頭のなかに?

内容を忘れているものもある。
かと思えば、先のDEAD BOOKたちが呪詛の叫びを上げそうな、可愛がられている本もある。何度も繰り返し読まれる愛籠本だが、そういう本もまた少なくないのだ。
そして、思うのだけれど、繰り返し読んだ本がでは確かな知識であれ、人格の形成への一役であれ買っているのか、蓄えられているのか、というと、…そんなことはないよな。
本を読むことなんて、ただの生活の一部だ。
ちょっと蓮っ葉に、そういいたい気取りが僕にはある。


繰り返して読むのはクイーンの『エジプト十字架の秘密』だったり、三島の『青の時代』だったり(最近売れてるらしーなー)、村上龍の『イン・ザ・ミソスープ』とか『映画小説集』だったりするんで、それらは少しも啓蒙的ではない。
本を読めば知識が蓄積される、というのは幼児に対する信仰のようなものだと思う。もしくは本を読まない大人が本に対する憧憬を子供に押し付けている、とか。

前にも書いたけれども、僕が本を読むのは、読んでいないと不安になるからだ。
まあ、就寝前に歯を磨かないと落ち着いて眠れない、とか、夜になったらアルコールを摂取しないと1日を終えた気がしない、というのとほとんど変わらない。
そういった生活の一部分(必需品、というとなんか余所余所しい感じがするのだ)といった面と、もうひとつは何より最高の娯楽だという観点でしか、最近は能動的に本に取り組んでいないのかもしれない。

ただ、先に何も身につくことはない、みたいなことを書いたけれども、実際にはそうでない部分で身につけているものはあるのかも。
たとえば、大藪春彦ばかりを読んで思春期を過ごせば、やはりそういった人格形成がされるだろう。人格、なんて大袈裟な、という指摘があるのなら、ふるまい、でもいい。ある偏りのあるふるまいをするようになるだろう。吉本ばななばかりを呼んで過ごした、村上春樹がこの世界の本のすべてだ、…僕の三島にしてもそうだろうが、それは見えない形でひそかにいろいろ影響を与える。使う言葉が、語彙がその作家というフィルターを通して身につけられていく、ということももちろんあるが、そんな簡単で表層的なことだけではない。
美学、とか。
その人の価値判断の基準に明らかに影響する作家がいる、そういう本がある。


真夜中にひとりで、整理しながら、不要だと判断した本をバッサバッサと切り捨てながら、それは自己を確認する作業に似ている、とふと思った。硬質な言葉で的確にいい表わせるものではないが、いままので自分が文字のうえで、思考のうえで描いてきた軌跡をもう一度なぞり返す。読んだ本から得たことばかりでなく、読まなかった本であっても、それを手に取り選んだ、ということが、なるほど大事な気もしてくる。
まあ、そんなワケでひたすら整理中。いまも隣の部屋では、足の踏み場もないほどに積まれた本の塔と、ダンボール箱が、作業の開始を待っている。筈。

何もない、ただ言葉だけ/唐澤和也 『マイク一本、一千万円』

アンタッチャブルも好きだが、いちばん好きなのは笑い飯なんだよな。
他人を笑わす商売なのになんか危険な感じが漂っている、危ない目をしている、そういう漫才師が好きだ。柴田も、西田も哲夫も。なんかそういう匂いがあるでしょ。
M-1の笑い飯は、特に哲夫には、いつも鬼気迫るものがあった。決着がつくまでのインタビューでは徹底してボケまくり(命とかプライドとかを賭けてボケている感じがした)、決着がつくと、一瞬だけ黙ってうつむく、あの表情が。

漫才師って孤独だな、と思う。
『マイク一本、一千万円』をまた読み返していた。第3回M-1グランプリのドキュメンタリー。
これを読むと判ることだが、他人を笑わすのが本業なのに、漫才師とはなんと孤独な商売であることか。仲間は相方だけ、使うのは言葉だけ(僕はコントは好きではないんだけど、その理由はこの辺りにあるのかも。なんかコントって誤魔化してる気がする、っていったらいい過ぎか)。
そこがたまらなくカッコいい。

塾の教師に必要なものは、教務力、それ以外はすべて二次的で代用が利く、あるいは誰かに助けてもらえると、やっぱりいまでも思っている。
中学受験をやっていると、確かに面談の力だったり、子供とのコミュニケーション能力だったり、学校との折衝能力だったり、いろいろ必要だ。それは判る。でも。
面談は4科に1人出来る教員がいればいい。子供とのコミュニケーションだけで成績は上がらない。学校との折衝も、誰かがやればこと足りる。
でも教務力は、最低限、その個々人に備わっていないとダメだ。
理解させ、成績を上げる、生徒を満足させる。保護者の方にも満足してもらう。面談がいくらよくても、成績が上がらなければ通塾している意味がない。受験する意味がない。
教務力というのは侍の刀だ。刀を持たない侍が、授業に臨んでいったい何が出来よう?
教師が使うのはテキスト、チョーク、黒板。でもそれ以前に、やっぱり重要なそれぞれのツールは言葉だと思う。喋りの魅力、だな。
そういう点で漫才師と塾の教師って似ている、そう思わない?
ギター1本でライブを行う、マイク1本でたくさんの人を笑わす。ペン1本で作品を生み出す。知識と教務力だけで生徒を魅了する。ストイックで、そのどれもがとても華々しい一面をもち、そして優劣がはっきりしている。観るものに優れているものと劣っているものの違いがすぐに判る。誤魔化しは利かない。そこがいい。

すれ違い

よくあることだといえばよくあることなのだが、小学6年生のHとMの話。
僕が彼らを受け持ち始めたのが小学4年生の終わりころだから、かれこれもう1年と少しのつきあいになるが、彼ら2人はもっと前からの友達同士だ。小学校も同じ、お母さん同士も仲がいい。
ところが今日、教室に入ると教室長から呼ばれた。
「HがMをいじめたりぶったりしてるらしいんだよ、学校で」
最初は耳を疑った。
「あの2人、前から仲いいじゃないですか」と僕。そう答えながら、ここ1ヶ月ほど、そういえばちょっとHの印象が変わりつつあったことを思い出す。もとより真面目で秀才タイプのMと、野球少年のH、その組み合わせの妙が仲のよさのポイントだと思っていたのだが。

ちょっと話、聞いてみますわ、といいながら、これはHを叱らねばならないのか、と嫌な気分になる。
というのも、他教科の教員はわりとその粗野な面を気にしていて、彼はそれなりの「札付き」なのだった。そう思っていないのは僕だけで、それは彼が僕の前では大人しくしているだけなのか、彼のよさを他教科の教員たちが理解できていないのか、…簡単にどうだとはいえないのだけれど、溺愛して目が眩んでいるんじゃないかと指摘されれば、そうかもしれない。可能性は多分にある。

駐輪所で待つ。Hが先に来るだろうことは習慣から判っている。来た。
「こんちはー」といいながら自転車を停めたHに、
「学校で叱られたやろ」
と訊ねる。
「え?」とH。「なんで」
「なんかMのこと、ぶったりしたらしいやんか」
というと、彼はきょとんとした顔をして、「ケンカのことか」といった。
「ケンカなん?」
だとすれば話はちょっと変わってくる。
「Mが押したりしてきたから、そんで」
「やり返したんか」
「うん、まあ」
リーク元はMのお母さんだった。教室長のところへ電話があったのが昨日のこと。学校でもHは結構な番長格らしく(そんなふうには全然見えないのだが。背は低く、ちょっと小太り気味で眼鏡。どちらかといえば大人しくて可愛い感じ)、Mをいじめている、という話はそこから。
「ケンカなん?」
僕はもう一度、訊ねた。
「うん、…Mな、学校行くときも、最近待ってくれへんかったりすんねん」
「それでムカついたんもあるんか?」
「うん」
「待っててくれへんのは、なんか嫌なことがあるんちゃうか、Mは」
「…」
「お前はケンカやて思ってるみたいやけど、アイツはそう思ってへんみたいやで」
謝ったんか? と僕は訊ねた。学校で先生が仲裁に入っている筈だった。謝った、とHはいった。
Mからも話を聞くけどいいか、と訊ねると、Hは、ええよ、と答えて小さく頷いた。

HとMとはクラスが違う。その日、僕の授業はMのクラスからだった。
授業開始まで少し時間がある、漢字テストのある日は、その少しはやい時間から教室に入り、漢字を練習してきたノートをチェックする。
机間巡視でノートを見ながら、Mのところまで来た。
顔はノートにむけたまま、
「Hともめてんねんて?」
とMに話しかける。うん、と頷く気配。他の生徒は、何のことだろう? と訝しんでいるだろうが、僕が小声で話しているので、「多分、聞いちゃ不味いんだろう」と判断してくれている筈。
「Hはケンカやていうてたけど、ケンカなん? イジメられてるん? どっち?」
上手く答えるだろうか、と思いながら発した質問だっけれど、Mは、
「イジメられてる」
といった。
「いつから?」
「(5年の)2学期の終わりくらい、…」 
「Hは謝ったっていうてたけど。まだ嫌なんか」
「…うん」
「お前ら、仲よかったやん」
「うん」
「どうしたい?」
訊ねると、Mは結構、力のこもった声で、「仲よくしたい」といった。
よくいった、と思った。わかった、と僕は頷き、Mに間に入ってもいいか、と訊ねた。Mは、うん、と答えた。
「オレも、お前らには仲良くしてほしいと思ってるんや」
と僕はいった。 続きを読む

それはどんなことでも出来る

ついに今年もあの日が。3月5日、第78回アカデミー賞の発表。昨年の予想は正解率3/6。
まあお祭りだからな。詳しくはコチラ
今年もやるぜっ、恐れ多くも予想。すべて未見。

■作品賞 『ミュンヘン』
■主演男優賞 フィリップ・シーモア・ホフマン
■主演女優賞 キーラ・ナイトレイ
■助演男優賞 ウィリアム・ハート
■助演女優賞 レイチェル・ワイズ
■監督賞 ポール・ハギス


無謀は百も承知だが、しかし今回は読めないな。
下馬評では『ブロークバック・マウンテン』だが、これも同性愛が題材ということで、保守的なアカデミーが嫌う可能性がある。
作品として『カポーティ』は楽しみにしているが、主演のフィリップ・シーモアは先日、過去の薬物依存を告白した。これは受賞後の発覚を恐れてだと思うが、賞レースに悪い影響を与えたかも知れない。
主演女優については、消去法の選択。シャーリーズ・セロンでもリース・ウィザースプーンでもいまひとつ華がない気がする。キレイだとかそういうことではない、アカデミーとしての華の話。
助演男優にはちょっと私的な期待がこもっていて、ウィリアム・ハートの出演作品は『ヒストリー・オブ・バイオレンス』。クローネンバーグ作品なのだ。

デビッド・クローネンバーグはかつて「ホラーの貴公子」と呼ばれていた。
小説家志望でその思考はきわめてロジカル、不要ギリギリの理屈をそなえた内臓ドロドロのホラー映画で初期キャリアを重ね、頭部爆破シーンで有名な『スキャナーズ』『ビデオドローム』でその名を知らしめる。
のち、『デッド・ゾーン』や『戦慄の絆』といった、センチメンタルな、ホラーのカテゴリーに収まりきらない作品を撮り、『クラッシュ』へと至る。
そういったキワモノ的なレッテルをもちつつ、しかし演出の確かさは出演した役者のすべてが口を揃えて絶賛する。『ビデオドローム』のジェームズ・ウッズ、『デッド・ゾーン』のクリストファー・ウォーケン、そして華々しいキャリアの第一歩を刻ませた『戦慄の絆』のジェレミー・アイアンズ、と。『イグジステンズ』ではジュード・ロゥも起用していたが、その役者の趣味のよさ、そして撮影後に役者たちがその演出の手腕へ贈る賛辞。
そのクローネンバーグの最新作より、助演男優賞へのノミネートだ。受賞すればさぞかし小気味いい筈。ずいぶんと以前からのクローネンバーグ・フォロワーにしてみれば、まして。

今年のアカデミーは例年になく、社会派の作品が多い。
これもひとつのアメリカ社会の反映なんだろう。9・11の衝撃からようやく癒えつつあるのかも知れない。ジョージ・クルーニーが「批判はひとつの名誉である」といった発言をしているが、それも真実。
ただアメリカに必要なのは癒えることだけではなく(もちろん、それがいちばん必要だ。どうであれ、人が死んだ、いや殺されたのだから)、自省であるとも思うが。社会が自省するためには、それを客観的にとらえる複数の日和らない視点が必要だ。
『オーシャンズ11』をくだらないセレブの余技だと僕は思うが、それでもジョージ・クルーニーという役者を嫌いにはなれない。ひとつには『ピースメーカー』という映画がとても好きで、そこに出てくるクルーニーがとても魅力的だから。
それは本当に安易な理由なんだけれど、これも映画のことだから。
そのクルーニーが社会的な発言を繰り返し、そういった作品ばかりに固執するようになったら残念だと僕は思うが、それはそれで個人の考え方だからな。
作品賞の『グッドナイト&グッドラック』には、賞ではなく作品として期待をよせている。
スピルバーグにしたってそうなのだが、映画というツールは何でも可能なのだから。泣かせることも、センチメンタルにさせることも、笑わせて、くだらない日常をひととき忘れさせ、人のココロを元気にすることだって。そして社会的な告発やマイノリティからの発言として影響力をもつことも。

そうそう、今年のアカデミーで忘れてはいけないのが、そして、ある意味、僕が今年いちばん注目し、そして期待しているのは、長編アニメ賞。
宮崎駿なんかぶっとばして、栄冠をかちとれ!
『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』!

読み取りのスキル

寺山修司の『飛行機よ』という詩の解釈をめぐり、意見を戦わせることがあった。
これも仕事の話。
入試問題がなかなか使いにくくなってきていることもあり、各問題出版社も身動きがなかなかに苦しそうなので、半年ほど前からわれわれ教員自身が問題を作成し、それを教員が解き、作成した教員が模擬授業で解説を行う、ということをやっている。
作成者の解説や問題に納得がいかなければそこで口撃に晒される。
解く側は、解く技量を。作成者側は+教務力をも問われる。なかなかスリリングである。
今回は難関上位学校レベル、という設定つきで、かつ韻文からの作成だった。そこで題材として用いられたのが寺山の詩。
全体の引用は避けるが、こういうくだりがある。

少年は考える
言葉でじぶんの翼をつくることを
だが 大空はあまりにも広く
言葉はあまりにもみすぼらしい     

少年は考える   
想像力でじぶんの翼をつくることを 
いちばん小さな雲に腰かけて 
うすよごれた地上を見下ろすと
ため息ばかり


■問 「少年」とはどのような少年か
イ 実現不可能なはかない夢を追い続ける少年
ウ 自分をもてあましている孤独な少年
エ 主体的な自分を追い続ける少年

問題作成者の解答は「エ」だった。僕の解答は「ウ」である。
作成者の解釈は、この詩は「少年の夢」と「現実」とが対比されており、ここでは少年は「現実において主体的でありたい・自主的に挑んでいきたい」という位置づけ。
僕は違って少年は「対・社会」だがしかし社会に十分に対抗できるだけのスキルがなく、自分をもてあましている、という解釈。その根拠は、先に引用した部分中の「じぶんの翼をつくる」であり、その「翼」=「言葉」であり(これは割愛しているが、詩の第1連にそうと思われる箇所がある)、その「言葉がみすぼらしい」である。もちろん、「大空」はイコール「社会」だ。

こういった議論は、あるいは不毛なのかも知れない。
机上の空論だと思わないでもない。
が、読み取り能力の高さを競うことは楽しいし、「詩」という抽象性の高そうなものを(僕はけっしてそうは思わないのだが)題材に、それをまるで暗号のように読み取っていく、その精度を競うのは、優劣をあからさまに決めてしまうゲームのようだ。
もしかしたら教務とは別の点で僕はこの時間を楽しんでしまったかも知れないので、そこは反省なのだが、そういった作成者との議論を聞いて、周囲の教員にも少なからず得るところはあっただろう。いや、得るところがあった人もいるだろう。
前にも書いたが、僕は「国語」に感性は必要ない、それは的確に、ひとつの解答を論理的に絞っていく方法の伝授だと思っている。

寺山の詩が抽象的だとか、あるいは本来の解釈がどうだとかいうこととは切り離して考えるべきだ。それがいったん、問題という皮膜に覆われてしまえば。
問題作成者は犯人と似ている。緻密な整合性をもち、辻褄はどこかで合う筈だ。
それを考える、その整合性の結ぶ焦点の先を探す。詩人は確かに抽象性に、不特定性に身を委ね作品を投げ出すことは可能だが、問題を作る側はそこに規則を持ち込まねばならない。


その模擬授業の場で、作成者は先に述べたような主張を根底に、問題を作り、解説に勤しんだ。
僕はそこに2、3の矛盾を発見した。
それを指摘する。しかしそれが矛盾ではなく、より高度な解釈により整合性を保つなら、僕の読解力が浅かったというだけのことだ。
寺山の詩はたった26行、そこから証拠を探し出し、ひとつの繋がりを見出す。
詩はこう続く。

少年は考える
リリエンタールの人力飛行機
両手をひろげてのぼったビルディングの屋上に
忘却の薄暮がおしよせる
せめて
墜落ならできるのだ


■「人力飛行機」と、少年が言葉や想像力でつくる「自分の翼」とにはどのようなイメージの重なりが見られるか
イ 未発達の「人力飛行機」の頼りなさと、少年が「自分の翼」に抱く劣等感
ウ 壊れやすい「人力飛行機」の脆さと、少年が「自分の翼」に抱く無力感

僕の解答は「イ」だったが、正解と作成者がしたものは「ウ」だった。
繰り返すが、こういった議論は仕事であることを忘れて楽しんでしまう。読み取りの能力の優劣がはっきりとする、そういう場面は本当にスリリングで、ドキドキする。
これ以上にロジカルで知的な遊びはないな、とやりとりをしながらずっと思っていた。
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