本の多い家だとは思っていた。押入れの下はダンボール箱をいくつも詰め込んであるのだが、その中身すべて本だ。
でも、これほどだったとはなー。
理由あって部屋の整理をしている。本だけに限らないのだけれど、まずは本から。それがいちばん多いのは明らかなので。作業的には複雑でも何でもない、ただ無駄のないよう箱に詰め込んでいくだけ、押入れのダンボールの分は、また別の箱に移し変えていくだけ。
「これはいいかなー」と思うものがあったら、「捨てる」か「売りにいく」かに分けて、これは片隅に積んでいく。それだけの筈だったのだが。
押入れの外、つまり常づね露出している部分はというと、大きめだがスリムな本棚がひとつ(ここにはCDも並んでいる)、背は低いが収容量は多いカラーボックスがひとつ、雑貨を扱うショップでよく小物なんかをディスプレイしているフレームだけの棚がひとつ(ここには画集なんかの背の高い本が並べてある)、それからそのどこからもはみだしてきて、部屋の壁面に沿って増殖中の雑誌やパンフレットや絵本なんか、…。
数日前からけっして小さくはないダンボール箱に詰め込み始めて、ちょっとビビってきている。
先のスリムな本棚と、カラーボックスだけで、すでにダンボール箱は6ケース、…おいおい、このままでいけばいったいいくつに? と思いながらさらに詰め込んでいき、それでもまだ押入れ「外」の本が7割がたしか片付いていない。「捨てる」本も「売る」本も結構な量がもう出ているんだけどな。
見た目だけで「それほどでもない」と高を括っていたのだが、思っていた以上にそれはこの家にあったらしい。そのすべてを読んでいるのかと問われれば、まあそうでもなく、結構、読まずに「でも、もう読まないだろうーな」との判断から「捨てられ」ていく本もある。
計算を誤り、教室への行きで手持ちだった本を読み終え、本がないと落ち着いて地下鉄にも乗れないというある種類の病気にかかっているから、帰りには、遅い時間まで開いてる小さな本屋に飛び込み適当な文庫本を1冊買う。いざ地下鉄に飛び乗り読み始めるとぜんぜん面白くない、…という記憶もひとつやふたつではないもの。
つまらない本を読むほどの苦痛はないし、そんな義務もないので、まあそういう場合はDEAD BOOKとなるんだが。
しかしそんなものは全体の1割にも満たない。
それではこれだけの知識が僕の頭のなかに?
内容を忘れているものもある。
かと思えば、先のDEAD BOOKたちが呪詛の叫びを上げそうな、可愛がられている本もある。何度も繰り返し読まれる愛籠本だが、そういう本もまた少なくないのだ。
そして、思うのだけれど、繰り返し読んだ本がでは確かな知識であれ、人格の形成への一役であれ買っているのか、蓄えられているのか、というと、…そんなことはないよな。
本を読むことなんて、ただの生活の一部だ。
ちょっと蓮っ葉に、そういいたい気取りが僕にはある。
繰り返して読むのはクイーンの『エジプト十字架の秘密』だったり、三島の『青の時代』だったり(最近売れてるらしーなー)、村上龍の『イン・ザ・ミソスープ』とか『映画小説集』だったりするんで、それらは少しも啓蒙的ではない。
本を読めば知識が蓄積される、というのは幼児に対する信仰のようなものだと思う。もしくは本を読まない大人が本に対する憧憬を子供に押し付けている、とか。
前にも書いたけれども、僕が本を読むのは、読んでいないと不安になるからだ。
まあ、就寝前に歯を磨かないと落ち着いて眠れない、とか、夜になったらアルコールを摂取しないと1日を終えた気がしない、というのとほとんど変わらない。
そういった生活の一部分(必需品、というとなんか余所余所しい感じがするのだ)といった面と、もうひとつは何より最高の娯楽だという観点でしか、最近は能動的に本に取り組んでいないのかもしれない。
ただ、先に何も身につくことはない、みたいなことを書いたけれども、実際にはそうでない部分で身につけているものはあるのかも。
たとえば、大藪春彦ばかりを読んで思春期を過ごせば、やはりそういった人格形成がされるだろう。人格、なんて大袈裟な、という指摘があるのなら、ふるまい、でもいい。ある偏りのあるふるまいをするようになるだろう。吉本ばななばかりを呼んで過ごした、村上春樹がこの世界の本のすべてだ、…僕の三島にしてもそうだろうが、それは見えない形でひそかにいろいろ影響を与える。使う言葉が、語彙がその作家というフィルターを通して身につけられていく、ということももちろんあるが、そんな簡単で表層的なことだけではない。
美学、とか。
その人の価値判断の基準に明らかに影響する作家がいる、そういう本がある。
真夜中にひとりで、整理しながら、不要だと判断した本をバッサバッサと切り捨てながら、それは自己を確認する作業に似ている、とふと思った。硬質な言葉で的確にいい表わせるものではないが、いままので自分が文字のうえで、思考のうえで描いてきた軌跡をもう一度なぞり返す。読んだ本から得たことばかりでなく、読まなかった本であっても、それを手に取り選んだ、ということが、なるほど大事な気もしてくる。
まあ、そんなワケでひたすら整理中。いまも隣の部屋では、足の踏み場もないほどに積まれた本の塔と、ダンボール箱が、作業の開始を待っている。筈。
でも、これほどだったとはなー。
理由あって部屋の整理をしている。本だけに限らないのだけれど、まずは本から。それがいちばん多いのは明らかなので。作業的には複雑でも何でもない、ただ無駄のないよう箱に詰め込んでいくだけ、押入れのダンボールの分は、また別の箱に移し変えていくだけ。
「これはいいかなー」と思うものがあったら、「捨てる」か「売りにいく」かに分けて、これは片隅に積んでいく。それだけの筈だったのだが。
押入れの外、つまり常づね露出している部分はというと、大きめだがスリムな本棚がひとつ(ここにはCDも並んでいる)、背は低いが収容量は多いカラーボックスがひとつ、雑貨を扱うショップでよく小物なんかをディスプレイしているフレームだけの棚がひとつ(ここには画集なんかの背の高い本が並べてある)、それからそのどこからもはみだしてきて、部屋の壁面に沿って増殖中の雑誌やパンフレットや絵本なんか、…。
数日前からけっして小さくはないダンボール箱に詰め込み始めて、ちょっとビビってきている。
先のスリムな本棚と、カラーボックスだけで、すでにダンボール箱は6ケース、…おいおい、このままでいけばいったいいくつに? と思いながらさらに詰め込んでいき、それでもまだ押入れ「外」の本が7割がたしか片付いていない。「捨てる」本も「売る」本も結構な量がもう出ているんだけどな。
見た目だけで「それほどでもない」と高を括っていたのだが、思っていた以上にそれはこの家にあったらしい。そのすべてを読んでいるのかと問われれば、まあそうでもなく、結構、読まずに「でも、もう読まないだろうーな」との判断から「捨てられ」ていく本もある。
計算を誤り、教室への行きで手持ちだった本を読み終え、本がないと落ち着いて地下鉄にも乗れないというある種類の病気にかかっているから、帰りには、遅い時間まで開いてる小さな本屋に飛び込み適当な文庫本を1冊買う。いざ地下鉄に飛び乗り読み始めるとぜんぜん面白くない、…という記憶もひとつやふたつではないもの。
つまらない本を読むほどの苦痛はないし、そんな義務もないので、まあそういう場合はDEAD BOOKとなるんだが。
しかしそんなものは全体の1割にも満たない。
それではこれだけの知識が僕の頭のなかに?
内容を忘れているものもある。
かと思えば、先のDEAD BOOKたちが呪詛の叫びを上げそうな、可愛がられている本もある。何度も繰り返し読まれる愛籠本だが、そういう本もまた少なくないのだ。
そして、思うのだけれど、繰り返し読んだ本がでは確かな知識であれ、人格の形成への一役であれ買っているのか、蓄えられているのか、というと、…そんなことはないよな。
本を読むことなんて、ただの生活の一部だ。
ちょっと蓮っ葉に、そういいたい気取りが僕にはある。
繰り返して読むのはクイーンの『エジプト十字架の秘密』だったり、三島の『青の時代』だったり(最近売れてるらしーなー)、村上龍の『イン・ザ・ミソスープ』とか『映画小説集』だったりするんで、それらは少しも啓蒙的ではない。
本を読めば知識が蓄積される、というのは幼児に対する信仰のようなものだと思う。もしくは本を読まない大人が本に対する憧憬を子供に押し付けている、とか。
前にも書いたけれども、僕が本を読むのは、読んでいないと不安になるからだ。
まあ、就寝前に歯を磨かないと落ち着いて眠れない、とか、夜になったらアルコールを摂取しないと1日を終えた気がしない、というのとほとんど変わらない。
そういった生活の一部分(必需品、というとなんか余所余所しい感じがするのだ)といった面と、もうひとつは何より最高の娯楽だという観点でしか、最近は能動的に本に取り組んでいないのかもしれない。
ただ、先に何も身につくことはない、みたいなことを書いたけれども、実際にはそうでない部分で身につけているものはあるのかも。
たとえば、大藪春彦ばかりを読んで思春期を過ごせば、やはりそういった人格形成がされるだろう。人格、なんて大袈裟な、という指摘があるのなら、ふるまい、でもいい。ある偏りのあるふるまいをするようになるだろう。吉本ばななばかりを呼んで過ごした、村上春樹がこの世界の本のすべてだ、…僕の三島にしてもそうだろうが、それは見えない形でひそかにいろいろ影響を与える。使う言葉が、語彙がその作家というフィルターを通して身につけられていく、ということももちろんあるが、そんな簡単で表層的なことだけではない。
美学、とか。
その人の価値判断の基準に明らかに影響する作家がいる、そういう本がある。
真夜中にひとりで、整理しながら、不要だと判断した本をバッサバッサと切り捨てながら、それは自己を確認する作業に似ている、とふと思った。硬質な言葉で的確にいい表わせるものではないが、いままので自分が文字のうえで、思考のうえで描いてきた軌跡をもう一度なぞり返す。読んだ本から得たことばかりでなく、読まなかった本であっても、それを手に取り選んだ、ということが、なるほど大事な気もしてくる。
まあ、そんなワケでひたすら整理中。いまも隣の部屋では、足の踏み場もないほどに積まれた本の塔と、ダンボール箱が、作業の開始を待っている。筈。