2005年12月

“perfect” for next year

この数ヶ月のblogを読み返していると、結構限られた出来事を中心としてしか自分が考えていないことが判る。ひとつはもちろん仕事であり、もうひとつは、…書かないけど、まあそんなこと。
仕事について書いていることを読み返すと、当たり前なんだけど、その多くが整理のために書かれていることに気づいて、面白い。
普段、頭のなかでは明確で簡潔なフレーズを思い浮かべ、それに従い行動しているわけではない。
ただなんとなくだったり、経験則に基づいて言葉にはならない感覚を頼りにしていたり、相手の出方に振り回されていたりと、いろいろなんだけど、それは明確でもフィジカルでもない。
そういった日々とった行動を、書くことで整理し、そのなかで何か真理のようなもの、「原則」のようなものを見出し言葉に置き換えようとしている。
なかにはエゴイスティックな正当化のケースもある。
終わってしまったことについての、やや自己弁護的な後悔や述懐の場合もある。
まあ、それでも書くことが思考を整理し、反省や発見やがそこに含まれているのだとすれば、それで自分でもよく判らない自分というものの輪郭が少しでも明らかに、なんとなくでも見えてくるのだとすれば、書かないよりは書く方がマシだということかしら。


小説を書いている自分は好きなのに、blogや日記やを書く自分のことをいまひとつ信用できないで薄っぺらだと思う理由はこの辺りにあるのかもしれないぞ。

もう判っていることだが、人は日々とんでもないチャレンジと成功と自閉的な達成感とつまらない悔恨とマンガみたいな失敗に塗れていきているもんだ。
他人から見たら本当にどうでもいいことに悩み、他人にしてみれば信じられないほどひどいことや大変なことにも、さして気に留めずにぼんやりと暮らしている。
相手にとってはまったくナンセンスないいわけをし、ウソをつき、子供じみた主張をする。
でも、まあそういうもんだから、と最近はようやく思えるようになってきた。
この1年、他人にされた嫌なことなんて、どうしようもなく恣意的な運命から受けた仕打ちに比べれば取るに足りないことばかりだった。この言葉が不愉快な誤謬を生まないことを祈るが、本当にそうだったのだから。
もちろん、次の1年がどうだかは判らないけれども。

また来年も、他人に対してではなく、自分にむかって、いいわけしたり誤魔化したりしながら過ぎていくのかしら。他人に対してそうしなくてもすむようになったのは、いくらか大人になったから? いや、社会というゲームのルールに少しは馴染んだからだろう。
ときどき手詰まりになったり、ひどくむなしくなったり、問題が大きすぎることはあまりなかったけれども厄介過ぎたりしたときには、断片的なピースでしかないいろいろを繋ぎ合わせてそこに普遍的な絵を見出そうとして、また僕は小説を書くんだろうな。
読んだり、書いたりして。ラムとメーカーズマークに溺れ、暗がりのスクリーンで泣き、笑い飯のことを考えたり怪獣のことを考えたり、カラオケでラルクを唄ったり観覧車に乗ったり、約束したり、手を繋いだり、冗談みたいな毎日を。冗談みたいな毎日のなかで、確かだと思える何かを。書いたり、それからまた約束したり。いいわけもしてみたり。
来年のテーマは「パーフェクト」、おかしいでしょ? 自分でもオイって思う。
でも、まあそんな1年もいいかも。背伸びや無理をしてみて、誰かに、ちょっと助けてよ、といいながら、手を貸してくれている誰かが驚くほど華麗なジャンプをしてみる、そんな1年になればいいかも。
そのときには気軽に手を貸して、上手くいったら褒めてやってください。
引き続き、エゴが強くて屁理屈が多くて気障な振る舞いとマンガみたいな失敗なんかしてしまう僕を、よろしくお願いします。また1年、素晴らしい年でありますように。

つぎのテーマは

毎年この時期になると、頭のなかに翌年のテーマがぼんやり浮かぶ。
曖昧なイメージのようなものだといえばそれまでなんだけど、ふと降りてくる、という感じでそれでも確かに意識のなかに。浮かんでくるのだ、そのキーワードえみた言葉が。
「rockn' roll」だったこともあるし、「破滅」だったこともある。
(多分、仕事か世間か何かに不満があった時期ではないかしら。経済的・職業的に山アリ谷アリだった時期、そのときの不安定な生活をデストロイして再生させたい、という願望だったのだろう、…ということにでもしておく)

2003年の日記をひもとく。
「去年はこの場所で頻度や回数やレンジの広さなんかではなく『クオリティ』ってことなんだよ、と思って来年のテーマは決定、『クオリティ』ですね。いい小説を書くことと、いい仕事をすることと」
2004年は、
「来年のテーマ。数日前まで『love』だと思ってたんだけれど、いまは、reborn、『再生』だと思っている。何をって決まってるじゃないですか、2005年は小説をもっと。そして攻撃的なスタイルに」

結果的に今年が「再生」だったかというと、…どうなんだろう。
でも「シアン[cyan]」で同人誌復活っていうことはあるよな。もっと、ではなかったが小説は書いたぞ。
しかし驚くのは毎年毎年、小説についての意気込みだけは、オレって消さずに抱えているんだな。それはいいことだ。

2004年の映画ベスト1は『ヴィレッジ』。2003年は『Catch me,if you can』、その前は『アメリカン・ビューティー』だったかな。
いま発売中の『詩学』にも書いているけれど、今年は『クローサー』と『宇宙戦争』、どちらもぶっちぎってベストという感じではなく残念。来年は『M:IⅢ』も来るし、フィンチャー&クローネンバーグのダブル・(クレージー)デビッドも来るし、まあスピルバーグはここんところ毎年のように来るが、戌年に相応しくあのコンビも帰ってくるしな!

世間的にはもう年末、のんびりしたムードが漂ってきている。期待も感じる。
地下鉄は急に空き、帰りは酔客が多くなる。カフェのお兄さんたちばかりが年末を感じさせずに働いている。本当は見えないところでも仕事に勤しむ人は多くて、この時期、誰がいちばん最後まで働くかのレースのようだ。そして僕もしっかり今年もエントリー。31日まで働かせていただこう。
そんななかで、次の1年がどんな年になるだろうかという期待がある。期待というより、青写真か。
06年のテーマ、今日中には頭のなかに降ってくるかな。

気障で洒脱で、ちょっと優しい

YOSHII LOVINSONこと吉井和哉がインタビューでいっていた。
レコーディングのときのこと、ギターソロを入れているとサポートの英国人ギタリストから、
「きみ、ミック・ロンソンが好きなのか?」
と訊ねられた。
「好きだよ」と答える吉井和哉。「きみも好きなのか? なんで判った?」
と重ねて問うと、
「だってキミの弾いているソロは凄くミック・ロンソンじゃないか!」
といわれたという。
自分のルーツって出るもんだな、というのが吉井の弁。

自分のルーツって何なんだろう、と思う。
卑近だけど、ラルクのtetsuがdepeche mode好きだと知ったときには、そういうのって出ちゃうのかな、と思った。NewOrderのバーナードがジョニー・マーとエレクトロニクをやったときに、voにニール・テナントを起用したときにも同じことを感じた。
結局、うまく言葉にならないけれども確かにある琴線の部分は隠しようがない。
(yosii lovinsonは、この同じインタビューでエイミー・マンについて触れてもいて、僕は彼女のことも嫌いではないのだ。映画『マグノリア』のサウンドトラックは本当に素晴らしい)

僕の書く小説も、きっと誰かの影響を受けている筈なのだと思う。
それは誰か?
本を読む楽しみを叩き込んでくれたのは乱歩だった。でも僕が書いている小説はそういう種類のものではない。純文学処女喪失は島田雅彦だけれど、あんなポストモダンなものを書いているわけではない。
大江健三郎や村上龍や、…と考え、いや違う、と思い、ああ、そうか1人思い当たった。
やっぱりそうか、きっと僕は矢作俊彦に憧れ、影響を受けたいと思っていたに違いない。その気取りや、カッコよさなんかに。
自分の容姿や振る舞いやにコンプレックスをもち、洗練から縁遠く、お行儀のよさだけが取り柄だった僕にしてみれば、矢作のカッコよさや洗練や振る舞いの気障ったらしさには本当に憧れてしまう、クラクラきてしまう。

小学校6年生くらいの頃か、中学生になったばかりの頃かに矢作俊彦を読み出すなんて、僕も人並みに早熟だったというわけだ。
最初に読んだのはもちろん『マイクハマーへ伝言』だった。洒脱で、気障で、ちょっと優しい。
そういう小説に、ではなく、彼の小説に出てくる登場人物たちに、きっと長い間憧れていたんだ。そして自分がそうなれるかどうかはさておき、自分がそうであるかどうかはさておき、そういった人物たちを作り出したくて、小説なんか書いているのかも知れない。
もちろんそれだけでないことは百も承知だけれど、もっと別の個人的でけれども重要な理由ゆえに描く小説には、そういった人物たちを、自分の理想の姿として登場させたいと思っている(んだといま、思った)。

何にしろ、自分が何かを表現するときにはその先達となるモデルなり理想のものなりがあるんだな。確かに。
いまの僕はクイーンに憧れ、あんなふうに振舞いたいと思うのだけれど、そうか矢作もクイーンも洒脱で気障で女の子にからきし弱いという点では似ているのか。
それから、口が上手いという点でも。ふーん、なるほど、…。

偶然会ってしまったので

冬期講習に入ってから、なかなか慌しくっていい。
2日目には不意の代講が入って、初めての教室に行き授業を。そういった1コマだけ、慣れない生徒相手の超短期決戦授業は緊張感が漲っていてなかなかよい。自分を戒めるという意味でも、初心にかえるという意味でも。

冬期に入るに前後して、しばらく会わなかった人と偶然出くわす事件がばたばたと続いた。
そのうちの1人、その女の子は彼女から離れていった人。
出くわすなり「もう会わないかと思ってました」というので、「そちらの意思でしょ」と僕はいう。
仕事が忙しいことなんかは知っていたが、メールを送っても返してこなくなっていたので、まあそういう意思なんだろうと。1年なるかな? それなりに僕がお世話になってもいたし、その仕事っぷりや哲学やなんかも嫌いではなかったし、何度かレスがなくてもこちらは送っていた。あるところでむこうの意思を理解し、それきりになって、…ではなく、それきりにしていた。
「もう会わないかと思ってました」に続けて、「そういうふうな流れになっているんだと思ってました」といった。
それが不愉快でカチンときた(そういう流れになったのではなく、キミがしたんだ)。
それで、当時、彼女に報告しようかしまいかとちょっと迷って、結局報告しなかった僕の身辺上のある出来事をそこで知らせた。
彼女の顔が強張る。
「そのことが、いまはどうなっているのか?」を訊ねてきたが、
僕は教えなかった。

自分から連絡をとらなくなるということは、僕についての一切がどうなろうと関係がない、と判断することだろう? 僕がどうなっているか判らなくても構わない、と。
何度もメールを送り、それを無視し、「会わない」状況でO.Kだと判断したのだから、別にいま何がどうなっていようがキミには関係がない。いまキミが見せているその気がかりそうな、心配そうな顔は、社会的なポーズだ。気になったふりをしなければならない、と思っているからそうしているだけのことで、本当に気になるのだったら、気になる相手なのだったら、連絡を途絶えたままにはしなかった筈だ。というのが僕の言い分。
それから、そのことの成り行きをもし知ったら、キミはいま以上に嫌な暗い想いをするから。
もうなかったことにしておきなよ。
偶然会っても、二度と声なんかかけたりしないから。

軽い気持ちで疎遠になったり距離を置いたりすることは、多分、よくあることなんだけれども。本当にその判断が適切だったかどうかは、結構、手遅れになってからしか判らないもんだよなー、とまあ、僕も思わないでもないよ。

本の隙間から誰かが

先日気になっていた本を見つけました。
サスペンスでもホラーでもなく、タイトルは1センテンスのカタカナ、・・・でさえありませんでした。オレの記憶力はどうなっているんだろう? 一緒に探してくれた人、すまん。若い女性作家だという点だけあっていた。
というわけで、『窓の灯』を読んだあと、吉野万理子『秋の大三角』を読んでいる。(←知っている人、ここで笑ってください。いってたこととぜんぜん違うじゃねぇか、と)

年内にあとどれだけ読めるんだろうかしら、と最近強く考えている。例年、そういうことは考えたことがないと思うのだが。買っただけで放りっぱなしのDEAD BOOKが多いからかな。
目の前には長嶋有の『泣かない女はいない』が置いてあるし。これ、ずっと読もうと思っていて一昨日、古本屋で見つけた。

『秋の大三角』は新潮エンターティンメント新人賞受賞作。
主人公は中高一貫の女子高で演劇部に籍を置く女子中学生。彼女と、高等部にいる学園中の憧れの先輩(もちろん、女。少女マンガによくありそうなタイプの、男まさりのバス部員)と、通学する電車に出没する謎のキス魔との三角関係(になっていくのかな?)が物語の骨子。
若い女性の、それもあまり現実的ではなく、好みそうな少女マンガ的ガジェットにやや鼻しらみつつ読み進めていく。
小説らしいカッコよさが見当たらない。西烔子あたりのマンガで、古ければ松苗あけみあたりのマンガで読んだような感じ。

そこにプレゼントされた、ちょっと異形の(!)ブックマークをはさんで鞄に入れてある。
本の隙間からメタリックな誰かがこちらを見ていて「おーい、次にお前が読むのはここじゃよ~」といっている感じでキュート。ただこれ、頁の上部を切りそうなんですが、…(笑。
さてどんなブックマークだか想像してくだされ。
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