2005年11月

Walk,don't Run

小さいんだけれど、じわじわと嫌なことが積み重なった1日。
どんなことかいうと、たとえば裾あげしたスーツのスラックスの糸が出かけに解れてきたり(おかげで会議の間中、裾をクリップで留めておかなければならなかった)、生徒の答案を採点していたら、元解答に不備があって、不細工な○のついた答案になってしまったり、…。
朝から喉と頭が痛かったので「ありゃ、二日酔いかな」と思いつつ会議に参加。部屋が暑いなー、と思っていたらそれはどうやら僕だけで、なんでかな? と思っていると、ああそうか、熱っぽいのか。昼過ぎても喉と頭の痛みと熱っぽいのが収まらず、なんだ風邪じゃん。
そう、風邪の兆候が見え出したり(ヤバい)。
そして極めつけは、人に任せておいて仕事が帰宅間際の11時を過ぎてから不備があったと判り、そのせいで奔走せざるを得なかったり。
(人に任せるって勇気がいるよな、それと管理とが)
ちぇっ。

それでも、さすがに神様が可哀想だと思われたのか、その不備発覚後に面白いこともひとつ。
火曜日だけ同じ教室に入っている教員と、その日、はじめて同じ地下鉄で一緒に帰った。
何かのきっかけから、仕事の今後について、の話が、大学で何をしていたのか、という話題に変わり、それが文学、卒論は? 村上春樹、ああ、そうなんだ、と自ずと小説の話題に。
「書かないの?」
と訊ねると、大学時代にはちょこっと、10枚くらいの作品なら、という返答。いまでも書く気はあるんですけどねぇ、という彼に、結局、僕がシアン[cyan]について話すことはこの夜はなかったが。
「文学青年って思われるのって嫌じゃないですか?」
といわれ、
「むむ、でもまあ、僕は小説ってカッコいいと思ってるけど」
と答えると、
「そうですよねぇ。僕もそう思ってますよ」
と彼は頷いた。

部屋に帰り、毎月のお約束として、その夜も遅くまで「HAMMER RECORDS」の原稿に、ごほごほいいながら追われている(今月はいままでで最大のピンチである)。
一息ついてワードを閉じ、息抜きがてらあちらこちらのサイトなりblogなりを巡回。
小説を書いている女の子が、blogでひさびさに「書く」話題に触れている。
なんか、「しっかり書きなさいよ」といわれているみたいな気がした。

なんでも答えてあげる

ミュージックバトンを最初に知った半年ほど前には、実はバトンブームは終焉だったんだよなー。
あれってやっぱり、
1)自己愛の発露
2)実は答えて欲しいピンポイントの対象がいて、でも直接訊ねるのは照れくさい(かもしくは訊けない理由がある)ので、バトンを装う

のどちらかなんでしょう。
答えたい人の方が圧倒的に多かったのだろうけど。
なんか中にはどんなものでも、、バトンとして成立してないものとか、明らかに第三者が読んでもしようがないやんけ(つまり、あからさまに先の2)に当たるもの、もしくは誰が流し始めたのかなんとはなしに想像のつくもの)というものがあったりして、まあ、それはそれなんだけど。
そして、本当にあるのかと思ったら、あった、…。
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行為の正当性/三島由紀夫『憂国』『果実』『慈善』

何冊かの三島の短編集をカバンに、行き帰りの地下鉄のなかでランダムに読んでいる。
そしてこの機会に(遅まきながら)はじめて『憂国』を読んだのだった。
なるほど、とてもエロティックである。

『春の雪』が映画で公開されていて興味があるのは、本当はそれが「仕掛けられた」純愛であり、とても邪な想いの上に物語が成立している筈なのだが、映画は単純に純愛に置き換えることに成功しているのだろうか。
ふつうに読めば、それはとても共感できるような性質の物語ではないのだ。
『憂国』を読んでいてまたそんなことを思い出したのは、どちらも、「制度のなかでどれほどエロスは成立するのか」を試しているように読めたから。三島先生は本当はそうではなく、「制度のなかにこそエロスが成立するのだ」とお考えかもしれない。いまなら女学生とクラブの顧問とか? 
『憂国』は制度のなかで「死」が成立し、その「死」が「セックス」を演出するのだけれど、ほぼ全編、「セックス」を思わせる描写だった。その背後にヒエラルキーや、組織の圧力が存在して見える、いや見えないのだけれど、気配が圧倒的な存在感をもっている。
(その「死」の根拠とされるものの正当性とは?)

前に買ってほとんど手付かずのまま放っておいた『鍵のかかる部屋』から、数編。
とても短い、けれどもその短さゆえに『果実』は残酷さが際立つ
レズビアンで、異性との恋愛を嫌悪している2人は、しかし子供を欲しがっている。小癪な友人たちの狡計で、赤ん坊を育てることになる。
…結末はいったい何をいわんとしているのか? モラトリアムや、恋愛を知らずしてそのしかし子供を手に入れるその成就の姿に憧れる無知な2人を戒めたいのかな。
三島は「死」の前提として「大儀」ということを置くことが多いが、『果実』はあまりに虚無的にすぎる。
切れ味は、いいを通り過ごして凄惨なほどだ。

虚無的な青年を描いた『慈善』は面白かった。
こういう評価は誤解を招くかも、あるいは「わかってないなー」と指摘を受けるかもしれないけれども、カッコよかった。不道徳を探り、それに辿り着こうと実践する恐るべき青年の話。
昼間は保険会社の営業、夜はバンドマンの康雄は、行為のジャスティファイ(正当性でいいんだよな?)というものについて考える。奔放に生きても必ず思想というものが、彼の行動を正当化してきたのだ。
終戦によってその変換を、新たな正当性の根拠を必要と感じ始める。

しかし康雄の中には青年時代のはじめに人を襲うあの精神的な欲求もはやく目ざめた。その結果、行為をジャスティファイすることが思想の実用的価値だという生意気な諦観も人に先んじて得られたわけだが、さて戦争がはじまってみると、青年が進んで戦争へとび込むためにこの若々しく無軌道な諦観ほどお誂え向きなものは一寸見当たらなかった。なぜならこの種の諦観のみが、放蕩と戦争を同一線上に置きうるからだ。彼は学徒動員で海軍へ入り、勇敢だった。
戦争が終わった。大きな輝かしい失望だ。それが彼に彼自身の行動をどうにもジャスティファイしてくれぬような新しい思考の必要をはじめて切実に感じさせた。その前提として彼はどうにもジャスティファイされないだろうような行動をさがす必要があった。つまりそんな行動から逆にそういう思考への探りを入れようとして。


そこで起こされるのが不道徳な恋愛なのだが、道徳的に生きるためには道徳を感じる神経が必要である、不道徳を感じるためには不道徳をしる神経が必要である、という文言には痺れた。
だから小説って面白いと思うのだ。
大江健三郎の初期の作品に現れる青年像ととてもよく似ている。三島が大江を意識していた、というのは聞いたことがあるが、しかしそれよりも、ひとつにはそういう時代の変換があり(先に引用したとおりだ)そういう思想が現実に蔓延っていたのだろうと思いたい。
そしていま、そういった不道徳ともジャスティファイされるか否かといったこととも無縁な人たちが、小説の主人公として現れている。そういった人たちを、小説だけでなく物語は描いているが、そうか、そこに逆行するのが純愛ブームなのか。
確かに、その純粋さを際立たせようと思うと、邪な相対物が必要にもなるわな。

習慣

一生、買うことなんかないだろうな、と思っている種類の雑誌が目を引く。
ポール・スミスが特集されてるやんけ、と思った。奇妙な錯覚にとらわれる。
その理由は後述。

前に書いたこともあるけれど、この春先に腕時計を買った。
20代の頃まで腕時計はマストアイテムで、そう高いものではないけれどいくつも持っていた。
いちばんのお気に入りは海外で買ったBOY LONDONのそれで、厚みのある銀のボディ、白い文字盤の中央に描かれた赤い星が印象的な時計だった(それほど高いものではないです、BOY LONDONだもの)。
腕時計をはめなくなったのは携帯電話を持ち出してから。
普段からあまり多くのものを持つのをよしとしないクセが出た、のかも。
中学生からの奇異な習慣として、僕は右利きのクセに時計を右腕にはめていた。
その倣いが合理性を一義に考える年齢になって無理を生じはじめたのかも知れない。
…いつしか、腕に時計をはめる習慣はなくなった。

春先にふと思い立って、そしてある決意の具現として買ったという話を、あえてここでは繰り返さないけれども。その時計はpaul smith。
一目惚れだった。

雑誌の表紙に“ポール・スミス”の文字を見たとき、奇妙な錯覚にとらわれたのは、実はその日、購入してからはじめて、時計をはめるのを忘れて出かけてきていたからだった。
paul smithの時計を忘れたその日に、ポール・スミスの名前に本屋で目を引かれる。
むむ、と思う。とがめられている気がする。
忘れるなよ、おい、という幻聴を聴く。

携帯電話にずいぶん慣れていたので、それで時間を確かめるクセは十分についていたので、時計を購入したとき、ちょっと迷いがなくはなかったのだ。いや、迷いはなかったっけ。一目惚れだもの。ただ無駄にしちゃうかも、という自分に対する不信はあった。
この一日は、その不信を払拭した一日になった。
いったい、僕は何度、時間を確認しようと左手首に目をやり、そこに時計がはまっていないことを確かめたか!

もちろん、ここで僕は、
「ふだんはさして意識してない時計が、実際にないととても困ると改めて気づかされた」
という事実から、
「ふだん何の気なしにその存在について深く考えないですませているものが、実際に失われるととても大切だったと気づく」
なんてお節介で優しいにも程がある啓蒙を働こうなんて気はさらさらないので、念のため。

原則として

話しながら、結構、オレって勝手だよな、と思っていた。
勝手、というよりは、なんだろ、欲しがりなんだなー、とか。

欲しがってそれが与えられない場合、とてもショックを受ける、寂しい気がする、なので、欲しがらない、欲しいといわない、…という人がいるけど、それはちょっと辛すぎない?

■「欲しい」とはっきりいった場合
→1)ダメといわれる。ヘコむ。
  2)O.K! いいよ、といわれる。やったー!
■いわなかった場合
→相手も「あげたい」と思っているのにすれ違う可能性高し。こちらもいわないので当然、手に入らない。


前者なら1/2の確率で手に入る。
後者なら1/1の可能性で手に入らない、ってこの計算式は合ってるんだっけ?
なので、欲しい場合は出来るだけいうようにしている。アカンよ~、っていわれても、それは、もともと手に入らなかった筈のものなのだから。この人生で「欲しい」と「嫌だ」をちゃんといわなければ、いついうの?
前に話したかもしれないけれど、やらずに後悔するよりは、とりあえずやって後悔する方を選ぶ。
20歳までの僕はそうではなかった。一度取り返しのつかないものを失ってしまって、そのときとても深いところにまで落ちて、そう気づいてそこから這い上がってきた(と自分では思っている)。

ひとつ欲しいといい始めると、次々欲しいものが溢れてくる、というような意味でいったのなら、それはそれで構わないとも思うし、欲しいといっていいのは自分に相応なものだけだという考え方もあるし。
最初の1つが手に入った、では次に、…と思ったとき、その2つ目の欲しいものを、自分が手に入れるに相応しいのか? ちょっと考えてみる。
もしかして、それはまだ自分に分不相応なのでは? と思えば、それを「欲しい」といえるようになるまでスキルアップする。自分で想定したハードルを越えれば、今度はちゃんと「欲しい」という。
そしてその次、欲しくなる→スキルアップ、達成して「欲しい」という、手に入るかもしれないし、入らないかもしれない。その繰り返し。
人間関係に積極的になる、とか手をぬかない、とかそうことを原則において考えていく。
偉そうにいってるけれども、自分がそうであれかし、と思っているので。

書きたい小説のプロットが思いついて、でもいまの自分の技術では無理かな、と思う。
知識の蓄積や、素材へのアプローチの方法が少ない、と思えば、それを身に付けたいと願い、フィジカルに努力する。努力という言葉は嫌いなので、工夫する。ある人から見ればそれは迂回に見えるかも知れない、僕から見て他人のその工夫が無駄な遠回りに見えているときもあるだろう。でもそれは主観的なものだという割り切りは、出来る。

「この人生では、たまたまそうなのだ」という考え方を自分がしていることに、ときどき気づく。
この人生では、僕は小説と映画を一義的に考えるみたいだ。
この人生では、結局、いまの仕事がいちばん合っているみたいだ(それでも、数年後に予想もしなかったミスなりで失脚させられ会社を追われる、という妄想はときどき背後から襲い掛かってくる。そうなった人を、他の会社でも見たことがある)。
この人生では、よく怒ってばかりいると思われているみたいだし、この人生では、結構、寂しがりやのクセに、素敵な人が周囲にいてくれているそのおかで救われることが多いみたいよ。
次の、また別の人生では、もっとカッコいい顔に恵まれるかも知れない、体育会系の生き方をするかも知れない、「欲しい」と上手く口に出せず、いつも俯いているかも知れないし、その反対に、口にしなくたって何でも手に入る生き方をしているかも知れない。
でも、いまのこの人生を、僕は結構、楽しいと思っている。
ナイスな小説と映画と音楽と、それに美術を知っているし(笑

×   ×   ×

今日は珍しくmp3持参。読みかけの島田荘司が途中で終わると知っていたから。
200曲くらい詰め込んである、気分で、ランダムに流す。

女も男も ユメも仕事も
ロックも 神様も 信じるのはだって勝手
我が身カワイさ故 救われない諸行無常の日々
いばらの道を行け 守るため心のサンクチュアリ

汚されちゃいけない ヤツらの思うつぼじゃないか
ちゃんと歯を磨いて 下着も新しいのはいて

(「サンクチュアリ/及川光博」)




杜撰だんなんていったことは悪かったよ、…。
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