ひっそりと誕生日を祝う意味で、というとちょっと違うな、何かの記念に、
いや記念というほど大仰なものではなかった筈だ。
もう少し的確な言葉を探すなら、その(ごく自閉的に)記念となる日に、何かのマーキングをしておきたかったのだと思う。
それにこの1年を占う要素が若干あったとしても構わないだろう。
なにかにつけ日常のなかにゲームや賭けの要素を持ち込もうとする困った癖は、そう簡単に戒められるものではない。
買ったのがトーベ・ヤンソンの『誠実な詐欺師』だったということは数日前に書いた。
まだ読んでいる途中なので、感想などはまたいずれ。
だが、そのなかにあったこんなくだりが気になった。楔のように、それは突き刺さり、棘のように疼いている。
「…クリングさん、あなたはわたしの署名をそっくり真似ることができる。
わたし自身も顔負けの正確さで。あなたの思慮ぶかさを示す特徴、それもほかならぬわたしに向けられた配慮を示す特徴だわね」
「そうでもないですよ」とカトリ(・クリング)は指摘する。「たんなる観察の問題です。一定の習慣や行動様式を観察して、(…)あとは様子を見るというだけで」
「なにを見るというの?」
とアンナな腹立たし気に言った。
「その後のなりゆきを」
とカトリは答え、アンナをまっすぐに見た。カトリはゆっくりと続けた。
「アエメリンさん、
人が互いに相手にすることなんて、行為そのものとしては、ほとんどたいした意味はないんです。
重要なのはその行為の目的、つまりなにをめざしているか、どこに至ろうとしているかということです」
(改行は勝手にいれています)
なにごとにつけ本音でしか語らず、人生に対して割り切った真理を見出しそれに従うカトリ・クリングと、作家として印税で裕福な暮らしを手に入れているアンナ・アエメリン。
カトリは、しかし諦観にも似た人生の真理への忠実を抱え、
アンナは非常識に近い人生への不見識ぶりを物語のなかで見せる。
どちらも生きていくうえでは窮屈なのかも知れない。
そんなカトリは、弟マッツのために、アンナの住む「兎屋敷」を手に入れようと画策する。
しかしそれは犯罪ではない、暴力ではない。
論理的に、良心の痛みも非道もなく手に入れようと試みるのだ。
そうすることこそが真理に従うことだとでもいうように。
(カトリは、はじめアンナに対して悪意さえもっていない)
ムーミンで知られるヤンソンの長編小説。
読んだことのある人ならご存知だろうが、原作のムーミン谷は奇妙としかいいようのないところだ。価値観が、思考の筋道が。
『誠実な詐欺師』の登場人物たちは、ムーミン谷の住人たちがまだ人間の姿を保っているときの話、…そんな印象。
しかし、読みながらところどころで僕ははっとさせられてしまう。
「…人が互いに相手にすることなんて、行為そのものとしては、ほとんどたいした意味はないんです。
重要なのはその行為の目的、つまりなにをめざしているか、どこに至ろうとしているかということです」
ということを僕はよく知っていたが、
それをこうも的確な言葉でいわれたことも自分からいったこともなかった。
歪だと思っていた人物たちが、つきつけてくる言説やアフォリズムに溺れてしまう。
なんだか、この寒い村は奇妙に居心地がいい。
切れ味は鋭いというのに。
小説、というより言葉の、凄みが伝わってくる。
(『誠実な詐欺師』についてとても素敵なページがあったのでリンクさせていただきます。無断)
いや記念というほど大仰なものではなかった筈だ。
もう少し的確な言葉を探すなら、その(ごく自閉的に)記念となる日に、何かのマーキングをしておきたかったのだと思う。
それにこの1年を占う要素が若干あったとしても構わないだろう。
なにかにつけ日常のなかにゲームや賭けの要素を持ち込もうとする困った癖は、そう簡単に戒められるものではない。
買ったのがトーベ・ヤンソンの『誠実な詐欺師』だったということは数日前に書いた。
まだ読んでいる途中なので、感想などはまたいずれ。
だが、そのなかにあったこんなくだりが気になった。楔のように、それは突き刺さり、棘のように疼いている。
「…クリングさん、あなたはわたしの署名をそっくり真似ることができる。
わたし自身も顔負けの正確さで。あなたの思慮ぶかさを示す特徴、それもほかならぬわたしに向けられた配慮を示す特徴だわね」
「そうでもないですよ」とカトリ(・クリング)は指摘する。「たんなる観察の問題です。一定の習慣や行動様式を観察して、(…)あとは様子を見るというだけで」
「なにを見るというの?」
とアンナな腹立たし気に言った。
「その後のなりゆきを」
とカトリは答え、アンナをまっすぐに見た。カトリはゆっくりと続けた。
「アエメリンさん、
人が互いに相手にすることなんて、行為そのものとしては、ほとんどたいした意味はないんです。
重要なのはその行為の目的、つまりなにをめざしているか、どこに至ろうとしているかということです」
(改行は勝手にいれています)
なにごとにつけ本音でしか語らず、人生に対して割り切った真理を見出しそれに従うカトリ・クリングと、作家として印税で裕福な暮らしを手に入れているアンナ・アエメリン。
カトリは、しかし諦観にも似た人生の真理への忠実を抱え、
アンナは非常識に近い人生への不見識ぶりを物語のなかで見せる。
どちらも生きていくうえでは窮屈なのかも知れない。
そんなカトリは、弟マッツのために、アンナの住む「兎屋敷」を手に入れようと画策する。
しかしそれは犯罪ではない、暴力ではない。
論理的に、良心の痛みも非道もなく手に入れようと試みるのだ。
そうすることこそが真理に従うことだとでもいうように。
(カトリは、はじめアンナに対して悪意さえもっていない)
ムーミンで知られるヤンソンの長編小説。
読んだことのある人ならご存知だろうが、原作のムーミン谷は奇妙としかいいようのないところだ。価値観が、思考の筋道が。
『誠実な詐欺師』の登場人物たちは、ムーミン谷の住人たちがまだ人間の姿を保っているときの話、…そんな印象。
しかし、読みながらところどころで僕ははっとさせられてしまう。
「…人が互いに相手にすることなんて、行為そのものとしては、ほとんどたいした意味はないんです。
重要なのはその行為の目的、つまりなにをめざしているか、どこに至ろうとしているかということです」
ということを僕はよく知っていたが、
それをこうも的確な言葉でいわれたことも自分からいったこともなかった。
歪だと思っていた人物たちが、つきつけてくる言説やアフォリズムに溺れてしまう。
なんだか、この寒い村は奇妙に居心地がいい。
切れ味は鋭いというのに。
小説、というより言葉の、凄みが伝わってくる。
(『誠実な詐欺師』についてとても素敵なページがあったのでリンクさせていただきます。無断)