2005年07月

カネタカフェ

hammer records今月の作品はひさびさにお気に入り。明日にはupされると思う、ご一読のほどよろしくお願いします。
数日前、27日には『詩学』発行。今回のコラムは編集長に「キツい」と折り紙をつけられた内容。これも僕としては気に入っている。大型書店の文芸誌コーナーで出来れば購入を、止むを得ない場合は、……立ち読みでも。
当たり前だけど、自分の書いた原稿すべてが優れているわけではない(残念だが)。
ただその値段や読んでもらえるだけの価値はあるものにはしているつもり。優劣は、作者の個人的な好みであり、前者であれば、とても好きな作品に仕上がった、思ったより出来のいい子になったということで、後者であれば、いいたいことを整合性をもっていうことが出来た、ということになだろうか。
『詩学』で連載させてもらっている「幻、あるいは映画的フラグメンツ」という映画を扱うコラムは、常に試行錯誤の途中。
ただの映画紹介だったり、ただの批判だったり、ただの戯言めいたエッセイだったりしたときもあるし、今後もそうならないと確約出来ないのは辛いところだが、最近はある制約を課して書くようにはしている、…つもり。

この週末、京都に帰った。
「angers」で粋なステイショナリーを眺め、新京極の永楽屋で手拭いのモダンさに打たれ、錦市場のカネタカフェでお茶を飲んだ。
カネタカフェは、アーケードをかぶった狭い錦小路のなかにある、海産物屋さんのその二階にひっそりとある、隠れ家のようなお店。町屋そのままの造りなんだが、本物の静謐さがよかった。とても落ち着いた。

なじみのヤツ

講習中のみ、一コマだけ、いままで行ったことのなかった教室へ出向して授業することになった。
初めての生徒と対峙し、呼吸を探る。
と、なんだか懐かしい空気が、……。何やろ? 間違いなく初めての部屋で、初めて会う連中の筈なんだが。
その正体不明の懐かしさを心の片隅に些細な違和感として留めたまま、授業を進める。
中ほど、問題を解かしているとき、ふと視線を落として、気づいた。
教室に置いてあるゴミ箱が、自分の家のそれと同じだった。そうか。
ひとりでくすりと笑う。
…まあ、それだけのことなんだけど。

講習が始まる前の日曜日、いろいろ準備。気持ち的にも、そうでない面も。
スーツを新調して、ネクタイを何本か買って、講習中に読むだろう本を数冊買って、帰って飲むだろうラムのボトルも何本か買った。
しばらくはそんな暇ないんだろうなと思い、南堀江にある好きなカフェにケーキを食べにいった。本屋ではずっと買おうと思っていた『EXPO'70 驚愕! 大阪万国博覧会のすべて』(ダイヤモンド社発行 3800円!)も購入。

夏期講習は長い全力疾走。
そして大切なことは、ここでもやはりバランス感覚。

マナー・オブ・スピーキング

ここ数日書きたいと思っているけれども、どうにも上手く書けそうにないネタを抱えている。

話し合いや議論を、「相手をねじ伏せる」ことだと思っている連中がいて腹が立つ。
かつて、小説を扱うサークルのようなところにいたことがある、そこではメンバーの作品を合評する。仲間で読みあって、批評なり感想なりを述べるのだけれど、そういった場で、本当に作者(あるいは作品)のためになるような建設的で前向きな意見を述べられる人は多くない。
いい点を褒めるのは構わない。
よくない点を、作者も納得するようにいうのが難しいのだ。
というのも、
1)相手のよくない点をあげつらうことで、「自分の優位」をアピールする
人がいるのだ。また、
2)この作品はこうするべきだ、と思い込んでしまって狭視的になっている
人も出てくる。

1)の人の問題点は、合評の目的がすり替わっていることにある。
その話し合い・議論の目的は「作品をよくする」ことなのだが、その人の目的は「自分は正しい・相手は正しくない」を証明することになってしまっている。与えられた場が理解できていないのだが、こういう自尊心なり自我なりが強い人は結構、多くいて、自分の思い通りにならなかったり出来なかったりすると、とんでもないことをいってきたりやったりするので怖い。

2)の人にも、話し合いの余地がないので困る。
思い込みが強すぎ、どんな意見も自分のなかにある「こうするべきだ」という考えに「そっているか・いないか」だけで判断されるので、この人と意見を同じくしている人には理解を得ることが出来るが、そうでない人をまったく無意識に議論から外して話を進める傾向があるので、はなはだ不愉快に感じられる。

合評の司会は「公平」でなくてはならない。
そこでどんな意見が出ようとも、それを私的な立場ではなく、全体的な話し合いとして有意義なものにする義務がある。

司会が意図的に、俎上の作品を貶める現場に何度か居合わせた。
それで、いい気になっている司会はとても醜悪だと思ったけれども、気づかれていないこともある。

こういったことごとを思い出したのは、ここ数週間の間に2度ほど、話し合いの場に参加することがあったから。
そのうちのひとつで、進行を担った人が「みんなの意見を聞きたい。賛成でも反対でも構わないので」といいながら、無意識のうちに反対の人の意見を阻害していた。
司会という公平な立場を装いながら、他の発言者よりも前に、自分の意見を吐くのだ。
ケースにもよるが、進行者自体に意見があって、それを明らかにしたうえで、参加者に「どうか」と促し検討してもらう。このスタイルは正しい。
問題なのは「自分には意見がないので」といいながら、(もしかしたら自分でも気づいてないのかもしれないが)思う方向があって、それに合わせて、全体を誘導してしまう場合だ。進行者の自覚が乏しいからそういうことになるんだろう。考えが浅いからか。

先の
1)の場合は、話し合いの重要性を理解していて、狡猾に自分の正当性を主張する
2)の場合は、話し合いのスキルが未熟で、公平性が確立できない
簡単にその病理を述べるとそういうことになると思う。

何より、話し合いの場にちゃんとした意見を持たず、展望も持たず臨むことは失礼だと思っている。
反対に、多くの意見を聞きたいというのであれば、意見や展望があったとしても、進行をする限りはそこで自分がいちばんに口を挟んではならないと。
進行者が、その反対の意見をもっているものより自分が優れていると思い込んでいるからそういうことになるのかもしれない。
話し合いのいろんな場を見ていると、誰が誰を莫迦にしているかよく判る。本人も気づいていないのだろうが、結構、他人を軽く見ているものなのだ。

その話し合いの場で、ある参加者が「あんなふうに司会の人にいわれると、意見、いいづらくなりますよね」といっていたが、その通りだし、もしかしたらそれが進行者の目的だったのかも知れないし。


偽名

夏期講習、絶賛開講中。
今日、5年生の授業で。
「仮」の字と「ケ」という読み方を引っ張り出したかったのだが、条件設定が難しいのか、なかなか出てこない。で、ヒント。
「あんまりよくない、ウソの一種だな。キミらも使ったことあるかも」
というと、クラスでいちばん大人しそうな女の子が、
「ぎ」
と答えた。
「え? 『ぎ』?」
「そう、『偽名』とか」
ウソはウソだよな。
すかさず他の男の子がツッこむ。
「そんなん使わへんやんか」
「……使うよ」
興味がわいたので僕も訊ねる。
「使ったことあるん? 偽名」
「うん」
「どこで?」
「チャットで、……」
参りました。さすが、5年生。

「14歳までに見ておきたい映画」

英国映画協会が選んだ『14歳までに見ておきたい映画』にTB。
なるほど~。
僕は(確か)小学校1年生のときに劇場で、ティタム・オニールの『がんばれ!ベアーズ』を観て、それから『スター・ウォーズ』の洗礼を浴びた。
いまの子供はDVDで観ちゃうんだろうけど、当時は本当に映画って貴重な体験だった。
父親がうんといわないとお目にかかることは出来なかった。母親は絶対にいわないのがわかっていたので、父親だけが理解者であり、僕を映画に導くものだった。小説と同じように。

映画好きを標榜しているくせに、実はこのリストの10位までで観ているのは『トイ・ストーリー』1本きりである。
10位以下を見て、そうそう! と思ったのは『シザーハンズ』と『レイダース』、それに『BTTF』なんだけど、これ、考え出したら面白くて難しい。

先日、小学生(いわゆる中学受験をするような小学4年生から6年生)の子供に読んでもらいたい本、をリストアップすることがあって、結構、悩んだ。
なにより、僕は読書なんて他人から勧められるものではないと信じているので、気も進まなかったのだけれど、結構、偏ったり、王道になって面白みを欠いたりと、なかなか思うように上手くはいかない。
入試問題によく出た山田詠美は実は出題部分以外はエロティックだったし、詠美に限らずそういう作家は少なくないし。

さて、リスト以外に何か、…と考えてみる。
『スパイダーマン』
『ウォレスとグルミット 危機一髪』
『ジュラシック・パークⅢ』

それから、
『スクール・オブ・ロック』!
もし子供がいたら絶対に観せたいよ。


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