2005年05月

幸福だったか、悲劇だったか/『モナリザ・スマイル』

1953年のニューイングランド。とある名門女子大学に1人の女性が美術史の教員としてやって来る、名前はキャサリン・ワトソン。自立と進歩を学生たちに教えんとする彼女に生徒たちの反応はさまざまだ。
学生の多くは、養った知性を、教育を活用することなく結婚していく。そのためには自分の描いた未来図を破棄することを不思議とも思わない。みんながみんな、未来に対して意欲的でないわけではない。羨ましがられながら恵まれた結婚をしたように見えて、幸福になるわけではない。

習慣に抗うもの、一歩踏み出そうとするもの。結婚するもの、自分の容姿に自覚的であり多くを望もうとはしないもの、そして性的魅力を行使した関係に何かを見出そうとするもの。みんな魅力的だ。
ジュリア・ロバーツ嫌いの僕でも、ワトソン先生を素敵に思う。
(マギー・ギレンボールがめちゃめちゃいい。『セクレタリー』は全く魅力的ではなかった)
ジャクソン・ポロックの場面は、美術史中の彼の位置を知ってると泣ける。
(思っていたより彼って古い時代に生きてたのだな、という驚きはある。彼の前衛ぶりはより輝くが)

見終わって、これハッピーエンドじゃないよね、というと不思議な顔をされた。
勧めてくれた人は、そうは受け取ってないみたい。これからみんな一歩踏み出す、そういうポジティヴな映画なんだと。なるほど、僕は一歩踏み出すための、破瓜の痛みを描いた映画なのではないかと思った。旧弊なものと対峙して、誰もが傷ついた映画なんだと。
結末に対するこの感想は、あちらこちらの感想を読んでいる限りはマイノリティというか、この映画を悲劇的な映画だというふうに捉えているのはどうやら僕ひとりだけらしい。
まあ、映画の見方は誤読O.K!ひとそれぞれだしな。

高い知性を大切にしなければならない、と思わせるシーンがある。
詳しくは書かないけれども。村上龍の『半島を出よ』のなかに「連中はめちゃめちゃ強いが良識がないから滅びるだろう」という場面があって、それを思い出した。
いい教育を受けなければ良識は育たないというのか、それは能動的でないと獲得できないというのか、もとから持っている知性のポテンシャルの問題なのか、いや知性ではなく育てられた環境で得る常識だったり他人への配慮や機微のことを指しているのか。
解釈の仕方は何通りもあるが、正解はひとつしかないと思う。考える、ということでもいい。その考える際のある心構えみたいなもの、ルールみたいなものが自覚的に必要なんだということだと、僕は思っているのだけれど。
学習するということは、自分のエゴをひけらかすことでも、他人を不愉快にするという目的をもつものでもない。いろいろ知るなかで、人間として進歩する部分があるのだと思っている。そしてそれは背伸びや相対比較や見栄を最も嫌うと思うんだけど。

behaviour

数日前の深夜、知らないアドレスからメール、…と思ったら、そのアドレスを削除していたのだった。何度か一緒に飲んだことのある女の子からだった。ふられたのかしら。
「いちばん大切なものは何ですか?」
と訊ねてくるから、ちょっと嫌味だなと思いながらこう返す。
「能力、関係。いい映画」
返信はないかと思っていたら、しばらくして来た。
「幸せな人ってどんな人?」それに対する僕の返信。
「才能があって、そのことが周囲の人に認められている人」

会社の上司や仲間と飲んでいた。とても信用している女性から、
「女の子に対するツッコミが容赦ない。男の人に対してはそんなことないのに」と指摘される。長い間の女性に対する恨みがあるから、……というのは冗談だったのだろうか。自分が答えたことなのに、冗談なのか真剣にそう思っているのかの判断がつかなかった。
長い間、女の人と話すのが苦手だったのは事実です。

『HAMMER RECORDS』の原稿を書いた、自分でも嫌な話だな、と思った。
読んで嫌な思いをする人もいるだろうな、と思った。
自分のなかに意地悪ではすまない、歪んだ部分がある。暗い嫌な匂いを放つその部分も、しかし紛れもなく自分なのだった。自分のなかに確かにある部分なのだった。
それが疼き小説を書かせる。暴挙に走らせる。そして地下鉄に乗っての帰宅途中、暗がりのなかを走る車窓に映った自分の顔はひどく子供っぽいのだった。いい年齢なんだけど、とってしまう行動に分別がなくて困る。いや困るというよりは、嫌い。
何か手応えのようなものが欲しくて、何かをする機会が与えられれば、喜んでやる。
その過程で他人に対して要求するハードルが高くなる。自分の身の丈に見合わないハードルを用意して、自分が飛べているのかどうかも判らないのに、あやしいのに、他人にも跳んで見せろと要求する。
これもとても信用している女性から、たまたま僕が彼女の上に立ってあれこれ指示を出すような局面があって、それで彼女の不備をきつい言葉で咎めたことがあった。そのことを指摘されて、
「キミのことを信用しているからじゃないか。僕がいなくなったらキミが僕の代わりをやるんだろ」
といったのは本心だし、そう思っている相手はいまのところキミだけなので、まあ、我慢してよ。
むかついたらそういってくれればいいし、もちろん言葉が過ぎてしまった点については素直に謝るくらいの分別は、……多分あるから。

今日、仕事で大きなイベントがひとつあった。
助けられて、どうにか終えることが出来た。この1ヶ月が報われた気分。正直な感想が「助かった」だというのは本音です。
1週間ほど怠けてしまっても許して。

HAPPY CHILDREN/エドワード・ゴーリー『不幸な子供』

エドワード・ゴーリー『不幸な子供』
昨日、書いたことがなんだか違ったような気がしたので、水曜、待ち合わせ前にbook・1stで購入。
シャーロットは「我慢できなくなり/夜が明けるのを待って/学校から逃げ出した」のだった。
それから路上で行き倒れて気を失っているところを通りがかった男に連れ去られ、別のゴロツキに売り飛ばされるのだった。好きだといいながらあれこれを正確に覚えていないというのはマズい。
人攫いではなかったが、そのゴロツキの「気が狂う」ところや、暗がりの部屋で造花づくりの内職をさせられ目が悪くなるところなんかは鮮明に覚えていた。
印象が強かったのか。目が見えなくなるというエピソードは、子供の頃からそういわれ、読書禁止を言い渡されたことのある僕には我がことのよう思えて特に恐ろしかったのだろう。
ゴーリーの描く目が(ほとんど)見えなくなったシャーロットはとても怖い。
しかしなにゆえ、こんなに救いのない話を書くのだろう。
そしてこうも魅了されるのだろう。
ダークなものに惹かれる、というのは以前、『詩学』で「セブン」を取り上げたときにも書いたが、凶悪な事件を憎み倫理のズレに打ち震えるくせに、不条理にふりかかる不幸のドラマには抗いながらも惹かれるものがある。

かつて友人に「キミはハッピーチルドレンなんだ」と指摘されたことがある。「どういうことか」と訊ね返すと、その友人はこんな例を挙げた。
「父親が、次の日曜日に遊園地に連れて行ってやる、という。妹とボクは喜んでいる。日曜日の朝になって、出発がいまかいまかとわくわくして待っている。しかし出発の時間は来ない。父親に訊ねると『ああ、その話はなしだ』といわれる。意味もなくキャンセルされるが、別に父親に何か他の用事が急に入ったとかいうわけではない。仕方なしに妹と自分は部屋に戻る。それが普通のことだと思ってたんだ」
それから、「キミはそういう経験ってないだろう?」といわれた。
なかった。

それまで過ごしてきた十数年がひどく異なる人たちがこの社会に多くいて、そして一緒に暮らしているのだと遅まきながら知った。
意味がないこと、理由がないこと、そうした違いを抱えて、人と出会うのだということも。
自分がめちゃめちゃ幸せだとは思わない、自分が恵まれていないなんて思わない。
他人を知りたいという希求が人一倍ある。繋がりを求めるエゴは誰よりも強いだろう。それでも、他人との決定的な差を認めるのは、立ち位置が違う人がいる、と何度も繰り返して自分にいい聞かせるのは、他人から「違う」といわれることを恐れるからだ。
「お前に何が判る」といわれることを恐れるからだ。
「判る」ことと「同じになる」こととは違う。それはよく判っている、つもり。

ゴーリーのもつ線のなんともいいようのない、とても美しくて不気味な感じはクエイ兄弟のクレイアニメーションの記憶と結びつく。
個人的にはクエイの映像よりゴーリーの絵本の方が好きだ。
クエイの映像が視覚として記憶に残るとすれば、ゴーリーの絵やフレーズは脳に直接沁みこんでしまうからかな。なんだか長く、深く。
クエイの映像は点のように残り、ゴーリーの絵は読むこちらをまったく染めてしまうから、っていうと褒めすぎかもな

類型の不幸を書く/山田宗樹『嫌われ松子の一生』

『嫌われ松子の一生』を読み終わる
中盤から山田宗樹の筆もこなれたか、松子に感情移入できだしたのか、筆致が滑らかになる。かつて小説を書いている年配の女性がいわれていたことだが、
「書き出しって力が入りすぎちゃうのよ。一生懸命、その作品世界を説明しようとして。結果、読み手にとっては過剰な描写がふえる」
というのは、実際そのとおりで、自分で書いていても冒頭は観念的になるきらいがある。

物語は松子という女性が不幸に見舞われながら堕ちていく様をひたすら追い続ける。
些かその不幸の仕掛けが時代めいていて定番、昼メロの域を脱しないが、それを王道のよさだと割り切って読めるか、面白みを欠く、と思ってしまうかによって評価は分かれるかも。僕はそれなりに楽しめた。懐かしい感じは否めない、こういうドラマはかつて本当に多くあったのだ。細部や内面に凝らずに表層的なドラマで物語を推し進めていくだけのドラマが。
(詳しくないが最近の韓流ブームがその純愛版なんだろうか)

先日、ある女の子とエドワード・ゴーリーについて話すことがあった。
『松子』を読み終えて、みんな不幸を傍観するのが好きだな、と思い、そこでゴーリーの『不幸な子供』(「The Hapless Child (1961)」) を思い出した。
ある女の子が父親と離れ離れになり、学校からイジメられ追い出され、人攫いに連れて行かれそこでさらに、……とただ救いがないだけの絵本なのだが、その絵のもつ繊細な線の怖さもさながら、ちょっとした細部の描写がとても怖い。
「人攫いの気が狂」ったり、「暗がりで内職をさせられ」続けた結果、「目が見えなく」なったりする。
深淵を覗きこむ感じが、ある。

SO YOUNG

数年前までは腕時計が好きで、いくつか持っていた。
日替わりで変えるような趣味はなく、気に入っているものを集中的にはめる。もちろん、若かったので高い時計ではない。いちばん気に入って長くつけていたのは「BOY LONDON」の銀色の時計で、白い文字盤に赤い星が入っていた。共産主義的なデザインとゴスな感じのするボディのアンバランスがよかったのだと思う。
いくつかの時計が壊れて、携帯電話を持ち始めると腕にはめなくなった。
14歳頃からちょっと変わった癖があって、腕時計はいつも右腕にしていた。理由はそれなりにある。いまから思えば、ああ、ケレン味のある中学生らしい気取りだな、と一笑に付されても仕方のない理由だけど。

ある女性が、別に僕にいったわけではなかったけれども、こういっていた。
「ある程度の社会人だったら、携帯が時計代わりなんてダメよ」
そのときの言葉で決めたわけではない。1ヶ月ほど前、たまたま時間を潰すだけの目的で入ったショップで、その時計を見つけた。一目惚れだ。先の女性の言葉もそのとき思い出した。

ちょっとした決意のようなものと、自覚を促すといった目的のようなものとがあった。
ひさびさに腕に時計をしようか、と思ったのはそういう経緯。

日を置いて、また別のショップで同じ時計を見て、やっぱりいいな、と思ったら購入してもいいだろうと考えた。
最初に見たのとまた別の店で、ショーケースを覗く。間を置かず目を惹いた時計があった。見ると、それだった。
決意と自覚は、まあシフトチェンジについてのそれ。それから、青二才が売りにはならないという自覚みたいなもの。そういったいろいろが背中をポンと押して、
買っちゃった
ちゃんと左腕にはめている。自覚は、まあそういった若気のポーズを封印するという意味もある。
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