父の母の、祖母の葬式の間中、ずっと仕事のことを考えていた。それが申し訳ない。祖母にではなく、父に対して。つまらない息子だと思う。
仕事が上手くいっていないわけではないんだけどな。

3年ほどまえ、あるポジションについてある仕事を任された。それは「どうにかしろ」という抽象的な役目だった。どうにかなった。仲間が、助けてくれたから。その先頭で旗を振れ、というのが当時、任された役目だったのだろう。誰かが先頭に立って方向なり意義なりを示す必要がある、前に出て踊れ、というのが与えられた仕事だったのだと思う。
それはうまくいった。

集団にまとまりを与える方法を2つ、知っていた。
1つは、凡庸なリーダーの下に有能なメンバーが集まり、「こいつ、助けてやらないとしょうがないな」とメンバーたちが思い、文句をいいながらも自発的にまとまり、強い力をもっていくという展開。
もう1つは、そのやり方に多少の問題を孕みながらも、強権を発動し、威圧的だと反感を買いながらも、それでもメンバーをぐいぐいと力づくで引っ張っていって、まとまりを持たせる方法。
この2つは、大学のときに知ったやり方だ。リーダーを映画監督、メンバーをスタッフに置き換えてもらうといい。それ以外のやりかたをやろうとした撮影チームはことごとく失敗した。有能な監督に有能なスタッフ、というチームも。撮影期間中に監督とスタッフの間に溝が出来た。有能だとそれぞれ問題意識なり巨視的な視野なりをもつが、それは複数いらない。ひとつでいい。複数あると、それぞれが主張し出して失敗する。

何かをやろうとするとき、自分がその先頭に立たない場合、そのリーダーの示すやり方が正解であろうがなかろうが、まずかろうが失敗する公算が高かろうが、極力、求められない限りは、ベクトルが反対の意見は吐かないように自分にいい聞かせている。事なかれなのではなく、ひとりの人間のひとつの視野で首尾一貫させないと失敗することが多い、と知っているからだ。
なので、どんなケースでも、自分がそのリーダーたる場合もそうでない場合でも、そのやり方が正解がどうかはとりあえず二の次にして、ついてきてくれればいいしリーダーたる人物についていこうと思っている。
そういう覚悟はある。というか、そういう覚悟を負っていざとなれば一人だけが責任を負うというのが、そのチームなりグループなりのリーダーの仕事であり権利であり義務である、と思っているんだけど。それは至極、当然のことだと思っていた。責任を問われることもなければ、負う必要もない人間が、あれこれ指示するなんて恥ずかしいことはしてはならないと、みんな知っていると思ってたんだけど。

別に、いま自分が誰かからあれこれ越権的な指図を受けているわけでも、そういった意味で弱体化しているんだと情けないことを嘆いているわけでもないですが。
でも最近、そういった方法論みたいなことで頭のなかがいっぱいなのは確かだ。

強権を発動することに自信がなくなってるんだろう、きっと。仕事において。
自分で指図を出しながら、自分で納得していないことがままある。逆だ。自分で納得のいっていない指示を、自分で出している。出さざるを得ないという状況が嫌なのだ。他人に迎合した指示を出すのが習慣になってきている気がする。

ああ、そうか、他人に反発を食うことを恐れるようになってるんだな、と気づいた。いくつかの事件があってからだ。それを面倒だと思い、何でこんなことが理解出来ないんだろうと思い、理解出来なくてもいいからキミは(一通りの意見をいったうえで)ついてくるべきなんだろう? と思ったけれどもそうはさせなかった。反発した人間を許した。本人はそう思ってないかも知れないけれど、外部的には守ってしまった。その他人の知らない矛盾が自分のなかでキツくなっている、ということもある。僕に共感していない人間を、外側には、いい仲間だと喧伝して維持していくことが。

そんなことばかり、わざわざ新幹線にも乗り、片道5時間近くかかる道程を経てむかった葬儀の場で考えてしまっていた。
軽いノイローゼかも知れない、と思い、軽くなくなるかもしれない、とちょっと思った。