小説の感想をいってくれるのはうれしい。いわれなければ悲しい。
何のために書いているかといって、別にその人に読まれることだけを至上に考えて書いているわけではないし、強要するような権利はこちらにはないんだけれども、同じ書く仲間であって、私生活でもそれなりに親しくしている間柄であったりすると、まあ一言二言いってほしいと思うのが人情ってもんじゃなくって?
いや、今日の論旨は、感想をいってくれ、ではない。
その数少ないいってくれる人のなかに「一回しか読んでないんだけど」とか「さっと読んだだけなんで」とかいわれる人がいる。
「2、3度しか読んでないから」
なんていわれると、いや、それで十分なんっすけど、と思わず体育会系になって思ってしまう。
1度、1度でいいのだ。1度読んで、それで印象に残ったところだけさっと指摘してくれれば。
文学学校に行っていた時期、短ければ10枚程度、長ければ200枚とかの作品を2本ほど、一週間で読んで合評に参加するという、いま思えば相当に無茶なことをやっていた。僕はもちろん、どちらかといえば長い作品を平気で出すクチで、まあそれでも120枚とか。それを一週間で読んでくることを、なかば制度的にクラスのメンバーに強要していたわけなんだけれど、なかには、それを3回読みました、とか2回しか読めませんでした、とかいってくださるツワモノがいらっしゃる。
正直、僕は、他人の作品なんか1度しか読まない。読めない、という方が適当か。間が空くならまだしも、続けて2度も読めるほど面白い作品なんてほとんどないよ、っていうのが本音だ。
テキスト的に読むならそれも可能だろう。
その頃は読む側も書く側も、はっきり作家志望だったので、いわば読むことも書くことも研鑽、修行。なので、書かれる作品をテキスト的に読むことも必要だった。それはそれで、アリだった。
ここ最近の僕は、小説をテキスト的に読む気も読む必要もない。書く場合だっていつぞやのように「これでプロ作家に」とか「これで純文学の新人賞を獲って」なんて野心なく書いている。ただの娯楽、でも最上の娯楽であればいいと思う。
なので1度の読み捨てで構わない。ただ一言、「面白かった」か否かを答えてくれれば。もう少し詳しく「ほにゃららの場面が面白かった」とか「○○の科白ってカッコいいよね」とか「△△するところはちょっとどうかと思っちゃった」などといってくれれば。
娯楽であっても自分の作品にはいろいろなものが滲み出す。
高度な、テクニカルなスキルが小説を書くという行為にはそれほど要求されないので、それだけプレーンに出ると思うのだ。自分の思考や嗜好というものが。なので、批評はしやすいと思う。
これがテクニカルなスキルを要求するものになると「きっとこの作者はこうしたいんだろうけど、まだ技術がついてきてないんだな。それとも、そんな気はまったくなくってセンスがないだけなのかな?」とか迷うことになる。
センスって面白い。何がって人それぞれ違う。
新しく知り合ってその人の人格とか責任のとり方だとか偏愛だとかを好ましく思ってつきあい始める。だんだんと作品や何やでさらに深く理解出来ていく。そういった過程は素敵だ。みんながみんな、好ましく思える相手とはならない。こいつ、いいな、とこいつ、上手いな、とが両立したとき、長くつきあえるだろうな、と思えたとき、ちょっとしたライバル心なんかもくすぐられたりする。
先達としての楽しみも少しはある。
そういった出会いの最初の時期は、それでもセンスの微妙なズレが楽しい。
「へーっ、こういうこと考えるんだな」とか「ああ、こういうのをイイと思うんだ」という発見がある。
それがだんだん、一緒に映画を観にいったり、そのよかった点なんかについて話し合ったり、互いの作品のよかったところを話し合ったり、一緒にM―1を見て笑うツボが似ていたりとかして(たとえですよ。あくまで)、センスの共有が図られてくる。それもまたいい。積み重ねの先に似てきたり、理解しあえたりするもの、そういうものもあると思う。センスについてだって、あれこれ言葉に置き換えて交換しあわないと判らない、言葉に置き換えれば判る。
僕は自分自身が何を好きなのか、どういう作品をどういう言葉で書こうとしているのか、どう書けば自分で納得がいくのか、激しく模索していた生真面目な時期があって、その頃は出来る限り自分の思考を言葉に置き換えていってみようとしていた。その記憶がいまも残っているので、他人にもそれを強要したりするんだけど、そのレッスンは結構役に立ってるみたいだ。
論旨を戻せば、まあ結局のところ、1度、読んでくれればいいのだ。
それだけで、軽く感想をいってもらえるような作品しか、本人に書いてる気がないので。プロの作家の作品だって、続けて2度も読んだりすることは稀だろっていつも思っている。1度さっと読んだだけだから、と遠慮がちにいわれたりしたときには。
何のために書いているかといって、別にその人に読まれることだけを至上に考えて書いているわけではないし、強要するような権利はこちらにはないんだけれども、同じ書く仲間であって、私生活でもそれなりに親しくしている間柄であったりすると、まあ一言二言いってほしいと思うのが人情ってもんじゃなくって?
いや、今日の論旨は、感想をいってくれ、ではない。
その数少ないいってくれる人のなかに「一回しか読んでないんだけど」とか「さっと読んだだけなんで」とかいわれる人がいる。
「2、3度しか読んでないから」
なんていわれると、いや、それで十分なんっすけど、と思わず体育会系になって思ってしまう。
1度、1度でいいのだ。1度読んで、それで印象に残ったところだけさっと指摘してくれれば。
文学学校に行っていた時期、短ければ10枚程度、長ければ200枚とかの作品を2本ほど、一週間で読んで合評に参加するという、いま思えば相当に無茶なことをやっていた。僕はもちろん、どちらかといえば長い作品を平気で出すクチで、まあそれでも120枚とか。それを一週間で読んでくることを、なかば制度的にクラスのメンバーに強要していたわけなんだけれど、なかには、それを3回読みました、とか2回しか読めませんでした、とかいってくださるツワモノがいらっしゃる。
正直、僕は、他人の作品なんか1度しか読まない。読めない、という方が適当か。間が空くならまだしも、続けて2度も読めるほど面白い作品なんてほとんどないよ、っていうのが本音だ。
テキスト的に読むならそれも可能だろう。
その頃は読む側も書く側も、はっきり作家志望だったので、いわば読むことも書くことも研鑽、修行。なので、書かれる作品をテキスト的に読むことも必要だった。それはそれで、アリだった。
ここ最近の僕は、小説をテキスト的に読む気も読む必要もない。書く場合だっていつぞやのように「これでプロ作家に」とか「これで純文学の新人賞を獲って」なんて野心なく書いている。ただの娯楽、でも最上の娯楽であればいいと思う。
なので1度の読み捨てで構わない。ただ一言、「面白かった」か否かを答えてくれれば。もう少し詳しく「ほにゃららの場面が面白かった」とか「○○の科白ってカッコいいよね」とか「△△するところはちょっとどうかと思っちゃった」などといってくれれば。
娯楽であっても自分の作品にはいろいろなものが滲み出す。
高度な、テクニカルなスキルが小説を書くという行為にはそれほど要求されないので、それだけプレーンに出ると思うのだ。自分の思考や嗜好というものが。なので、批評はしやすいと思う。
これがテクニカルなスキルを要求するものになると「きっとこの作者はこうしたいんだろうけど、まだ技術がついてきてないんだな。それとも、そんな気はまったくなくってセンスがないだけなのかな?」とか迷うことになる。
センスって面白い。何がって人それぞれ違う。
新しく知り合ってその人の人格とか責任のとり方だとか偏愛だとかを好ましく思ってつきあい始める。だんだんと作品や何やでさらに深く理解出来ていく。そういった過程は素敵だ。みんながみんな、好ましく思える相手とはならない。こいつ、いいな、とこいつ、上手いな、とが両立したとき、長くつきあえるだろうな、と思えたとき、ちょっとしたライバル心なんかもくすぐられたりする。
先達としての楽しみも少しはある。
そういった出会いの最初の時期は、それでもセンスの微妙なズレが楽しい。
「へーっ、こういうこと考えるんだな」とか「ああ、こういうのをイイと思うんだ」という発見がある。
それがだんだん、一緒に映画を観にいったり、そのよかった点なんかについて話し合ったり、互いの作品のよかったところを話し合ったり、一緒にM―1を見て笑うツボが似ていたりとかして(たとえですよ。あくまで)、センスの共有が図られてくる。それもまたいい。積み重ねの先に似てきたり、理解しあえたりするもの、そういうものもあると思う。センスについてだって、あれこれ言葉に置き換えて交換しあわないと判らない、言葉に置き換えれば判る。
僕は自分自身が何を好きなのか、どういう作品をどういう言葉で書こうとしているのか、どう書けば自分で納得がいくのか、激しく模索していた生真面目な時期があって、その頃は出来る限り自分の思考を言葉に置き換えていってみようとしていた。その記憶がいまも残っているので、他人にもそれを強要したりするんだけど、そのレッスンは結構役に立ってるみたいだ。
論旨を戻せば、まあ結局のところ、1度、読んでくれればいいのだ。
それだけで、軽く感想をいってもらえるような作品しか、本人に書いてる気がないので。プロの作家の作品だって、続けて2度も読んだりすることは稀だろっていつも思っている。1度さっと読んだだけだから、と遠慮がちにいわれたりしたときには。