同僚でとても頼りになるオタのW先生から、電話が。頼んでおいたプリントの版下作成&印刷が終わった、という連絡をくれたのだった。
彼がいまいる教室に、僕は翌日入る予定がある。どこに置いておきましょうか? と訊ねてくれるので、そうだな、と考える。教室には僕が専有できているデスクがあった。そのデスクのどこかに、…と考えていると、
「タイムマシンの引き出しに入れておきますわ」
と彼はいった。僕は電話口でめっちゃ笑った。タイムマシンの抽斗、か。上手い。その表現、いただき。

ドラえもんがある種類の共通言語になって、たとえばまだ開いていない教室の前で「通り抜けフープ出してや」といったり、遅刻しそうなときに「どこでもドア」があったら、と思ったり、といったようなことは誰にだってあるんじゃないの。
そういった現実とは紙一枚分違う、もうひとつの世界のことをあるお約束として語るのは結構楽しい。世代に因るところも大きいが、これを文化と呼ん差し支えはないだろう。

Wくんと僕とでひとつのものを作った、言及すれば作ったのはみんななので、あるひとつのものをみんなで生むそのきっかけを2人で作った、という思いが僕のなかにある。彼がどう考えているのかは判らないが、僕らだけの、共有感覚を僕は勝手に持っている。
それは昨年、夏の終わりに行った勉強合宿のことだ。
5年生・6年生と行くその合宿は、6年生は勉強三昧、5年生には楽しいイベントをいくつも用意している。
そのひとつが合宿中の一晩を使って行う夜のアトラクション大会で、そこで僕らは推理劇をやった。当初、みんなが無理だろうと、比較的消極的に取り組んでいたなかで、なぜかいつになく強気でその実行不可能性の高い企画を推したのがWくんだった。僕はそのWくんに乗った。出来ないだろうという大概の予想を2人で裏切るのが面白そうに思えたのだ。結果はみんなが一枚以上に噛んでくれたので大成功だった、という話は以前にもこのblogで書いている。
推理劇だよー、まあ実行不可能だと普通は思う。
芝居のなかで事件を起こし、生徒たちに推理させ、かつ(これがいちばん重要だが)満足させる。面白がらせる。そういったことが果たして素人の、そして死ぬほど忙しい夏期講習中の塾講師たちに可能だとはとても思えない。まあ、それが正常な判断だ。
脚本を書いたのは僕だ。

先日、『QED』の原稿を読み返したときに、あ、と思い出したことがあった。
すっかり忘れていたし気付かなかったんだけれども、そのときの推理劇の基本構成・トリックなんていうとおこがましいから仕掛け、といっておく、その仕掛けの元ネタが、ここにあった。
先に掲載した「死体はどこに消えたか」は基本は錯覚の話である。叙述者が隠蔽しようとする「隙間」を理詰めで見つけていく。そういった物語だったのだけれど、5年生相手に仕掛けた合宿の推理劇で、やっていることは同じである。書いている当時は意識してたんかな。

こういった、以前に頭を捻ったことが、後の自分を助けてくれるということがたまにある。
蓄積だ、財産だと思うか、新しいことが生み出せなくなっていると悲観的に考えるかは人それぞれだろうが、まあ僕はわりと過去からの使者がやってくるようにして自分を救ってくれるというケースが嫌いではない。それはそう、タイムマシンの引き出しからやってくるみたいなんだ。自分の頭のなか、なんだけどね、本当は。