身勝手な賭けを

(前日からのつづき)
こんなことを書くのは、それでもどうにか帰りの新幹線のなかで(めちゃめちゃ疲れていた。強行軍だったもの)もうしばらく、思う通りに進んでみようと思うことが出来たから。
一緒に仕事してくれているメンバーのことが好きだし、能力は僕より高いと思っているし。それを上手く引き出せない、もしくはひとつの方向にむけられていないのは僕に問題があるんだろうが、それは先に書いたように、最近の僕こそが本当に自分がしなければならないと思っていることを伝えていないからだろう。まあ、そう思わせてくれたのも1メンバーである、女性教員のおかげなのだが。

ただ、いろいろなことを正直に伝えるのは難しい(伝えなくてもついてきてくれればいちばんいいのだが、と思わなくもない)。
1つは、理解の度合いが異なる。
もう1つには、政治的だけれども、帳尻を合わせなければならない方面への理解が異なる。
そういったことごとは説明してしきれるものでもないし、僕自身でさえ矛盾だと思っていることも少なくはないし、もうひとつ、刻々と変わるものでもあるし。

ただそうだよなー。
先日、僕自身が上司に裏切られて手ひどい目に合わされ1週間以上他の仕事が手につかないような状態に追い込まれたこともあって、やや人間不信週間(月間になりつつある)だからな。でもそのことをいいわけに自分の手がふさがっていたことをいいたくもない(こうしてこのblogに書くのは、読んでる人だけは理解してほしいという、甘えと希求の表れなので許してほしい)。
他人の悪口はいわない、でも事実を話せば悪口になってしまう、という状況って嫌だ。
本人にはキツいことはいっぱいいうけど、陰で批判をするのは美徳ではない、という躾を受けてきたから。

×   ×   ×

珍しく今月は「HAMMER RECORDS」の原稿を半ばには書き上げていたのだけれど、なんか躍動感を欠くなー、嫌な人物ばかり出てくるなーと思って書き直すことにした。日曜日から月・火・水で書けるだろう、と安易に考えていたら、急に出かけることになって、執筆の危機が、…。
諦めて書き上げている原稿を出そうか、でもそれも癪だ。1度、書き直そうと思った原稿を、どういった理由であれ出すなんて、…。物理的に無理だ、と思いながら、ふと、その日の夜までに○○から○○○が○○ら書く、でなければ書かない、という身勝手な賭けを思いつく。結果、帰りのJRのなかで○○ので、書くことに。そういう流れを生み出すにはちょうどよかったし、それでモチベーションを上げてくれたことには本当に感謝してるとこの場を借りて謝辞を。

それで日曜日の夜と月曜日の夜(は気がついたら5時で、空がすっかり白んでいたのだが)で書き上げた。プリントだけして火曜日、朝、のぞみに乗る。東京にむかう車中で朱を入れ推敲の予定が爆睡。結局、帰りののぞみでチェックを入れた。

×   ×   ×

ま、もう少し前向きで頑張ってみます。
ただ、なにかと切羽詰っているのは事実。
それが僕だけでないのも確か。

方法論

父の母の、祖母の葬式の間中、ずっと仕事のことを考えていた。それが申し訳ない。祖母にではなく、父に対して。つまらない息子だと思う。
仕事が上手くいっていないわけではないんだけどな。

3年ほどまえ、あるポジションについてある仕事を任された。それは「どうにかしろ」という抽象的な役目だった。どうにかなった。仲間が、助けてくれたから。その先頭で旗を振れ、というのが当時、任された役目だったのだろう。誰かが先頭に立って方向なり意義なりを示す必要がある、前に出て踊れ、というのが与えられた仕事だったのだと思う。
それはうまくいった。

集団にまとまりを与える方法を2つ、知っていた。
1つは、凡庸なリーダーの下に有能なメンバーが集まり、「こいつ、助けてやらないとしょうがないな」とメンバーたちが思い、文句をいいながらも自発的にまとまり、強い力をもっていくという展開。
もう1つは、そのやり方に多少の問題を孕みながらも、強権を発動し、威圧的だと反感を買いながらも、それでもメンバーをぐいぐいと力づくで引っ張っていって、まとまりを持たせる方法。
この2つは、大学のときに知ったやり方だ。リーダーを映画監督、メンバーをスタッフに置き換えてもらうといい。それ以外のやりかたをやろうとした撮影チームはことごとく失敗した。有能な監督に有能なスタッフ、というチームも。撮影期間中に監督とスタッフの間に溝が出来た。有能だとそれぞれ問題意識なり巨視的な視野なりをもつが、それは複数いらない。ひとつでいい。複数あると、それぞれが主張し出して失敗する。

何かをやろうとするとき、自分がその先頭に立たない場合、そのリーダーの示すやり方が正解であろうがなかろうが、まずかろうが失敗する公算が高かろうが、極力、求められない限りは、ベクトルが反対の意見は吐かないように自分にいい聞かせている。事なかれなのではなく、ひとりの人間のひとつの視野で首尾一貫させないと失敗することが多い、と知っているからだ。
なので、どんなケースでも、自分がそのリーダーたる場合もそうでない場合でも、そのやり方が正解がどうかはとりあえず二の次にして、ついてきてくれればいいしリーダーたる人物についていこうと思っている。
そういう覚悟はある。というか、そういう覚悟を負っていざとなれば一人だけが責任を負うというのが、そのチームなりグループなりのリーダーの仕事であり権利であり義務である、と思っているんだけど。それは至極、当然のことだと思っていた。責任を問われることもなければ、負う必要もない人間が、あれこれ指示するなんて恥ずかしいことはしてはならないと、みんな知っていると思ってたんだけど。

別に、いま自分が誰かからあれこれ越権的な指図を受けているわけでも、そういった意味で弱体化しているんだと情けないことを嘆いているわけでもないですが。
でも最近、そういった方法論みたいなことで頭のなかがいっぱいなのは確かだ。

強権を発動することに自信がなくなってるんだろう、きっと。仕事において。
自分で指図を出しながら、自分で納得していないことがままある。逆だ。自分で納得のいっていない指示を、自分で出している。出さざるを得ないという状況が嫌なのだ。他人に迎合した指示を出すのが習慣になってきている気がする。

ああ、そうか、他人に反発を食うことを恐れるようになってるんだな、と気づいた。いくつかの事件があってからだ。それを面倒だと思い、何でこんなことが理解出来ないんだろうと思い、理解出来なくてもいいからキミは(一通りの意見をいったうえで)ついてくるべきなんだろう? と思ったけれどもそうはさせなかった。反発した人間を許した。本人はそう思ってないかも知れないけれど、外部的には守ってしまった。その他人の知らない矛盾が自分のなかでキツくなっている、ということもある。僕に共感していない人間を、外側には、いい仲間だと喧伝して維持していくことが。

そんなことばかり、わざわざ新幹線にも乗り、片道5時間近くかかる道程を経てむかった葬儀の場で考えてしまっていた。
軽いノイローゼかも知れない、と思い、軽くなくなるかもしれない、とちょっと思った。

1度で十分なんだけど

小説の感想をいってくれるのはうれしい。いわれなければ悲しい。
何のために書いているかといって、別にその人に読まれることだけを至上に考えて書いているわけではないし、強要するような権利はこちらにはないんだけれども、同じ書く仲間であって、私生活でもそれなりに親しくしている間柄であったりすると、まあ一言二言いってほしいと思うのが人情ってもんじゃなくって? 
いや、今日の論旨は、感想をいってくれ、ではない。
その数少ないいってくれる人のなかに「一回しか読んでないんだけど」とか「さっと読んだだけなんで」とかいわれる人がいる。
「2、3度しか読んでないから」
なんていわれると、いや、それで十分なんっすけど、と思わず体育会系になって思ってしまう。
1度、1度でいいのだ。1度読んで、それで印象に残ったところだけさっと指摘してくれれば。

文学学校に行っていた時期、短ければ10枚程度、長ければ200枚とかの作品を2本ほど、一週間で読んで合評に参加するという、いま思えば相当に無茶なことをやっていた。僕はもちろん、どちらかといえば長い作品を平気で出すクチで、まあそれでも120枚とか。それを一週間で読んでくることを、なかば制度的にクラスのメンバーに強要していたわけなんだけれど、なかには、それを3回読みました、とか2回しか読めませんでした、とかいってくださるツワモノがいらっしゃる。
正直、僕は、他人の作品なんか1度しか読まない。読めない、という方が適当か。間が空くならまだしも、続けて2度も読めるほど面白い作品なんてほとんどないよ、っていうのが本音だ。
 
テキスト的に読むならそれも可能だろう。
その頃は読む側も書く側も、はっきり作家志望だったので、いわば読むことも書くことも研鑽、修行。なので、書かれる作品をテキスト的に読むことも必要だった。それはそれで、アリだった。
ここ最近の僕は、小説をテキスト的に読む気も読む必要もない。書く場合だっていつぞやのように「これでプロ作家に」とか「これで純文学の新人賞を獲って」なんて野心なく書いている。ただの娯楽、でも最上の娯楽であればいいと思う。
なので1度の読み捨てで構わない。ただ一言、「面白かった」か否かを答えてくれれば。もう少し詳しく「ほにゃららの場面が面白かった」とか「○○の科白ってカッコいいよね」とか「△△するところはちょっとどうかと思っちゃった」などといってくれれば。

娯楽であっても自分の作品にはいろいろなものが滲み出す。
高度な、テクニカルなスキルが小説を書くという行為にはそれほど要求されないので、それだけプレーンに出ると思うのだ。自分の思考や嗜好というものが。なので、批評はしやすいと思う。
これがテクニカルなスキルを要求するものになると「きっとこの作者はこうしたいんだろうけど、まだ技術がついてきてないんだな。それとも、そんな気はまったくなくってセンスがないだけなのかな?」とか迷うことになる。

センスって面白い。何がって人それぞれ違う。
新しく知り合ってその人の人格とか責任のとり方だとか偏愛だとかを好ましく思ってつきあい始める。だんだんと作品や何やでさらに深く理解出来ていく。そういった過程は素敵だ。みんながみんな、好ましく思える相手とはならない。こいつ、いいな、とこいつ、上手いな、とが両立したとき、長くつきあえるだろうな、と思えたとき、ちょっとしたライバル心なんかもくすぐられたりする。
先達としての楽しみも少しはある。
そういった出会いの最初の時期は、それでもセンスの微妙なズレが楽しい。
「へーっ、こういうこと考えるんだな」とか「ああ、こういうのをイイと思うんだ」という発見がある。
それがだんだん、一緒に映画を観にいったり、そのよかった点なんかについて話し合ったり、互いの作品のよかったところを話し合ったり、一緒にM―1を見て笑うツボが似ていたりとかして(たとえですよ。あくまで)、センスの共有が図られてくる。それもまたいい。積み重ねの先に似てきたり、理解しあえたりするもの、そういうものもあると思う。センスについてだって、あれこれ言葉に置き換えて交換しあわないと判らない、言葉に置き換えれば判る。
僕は自分自身が何を好きなのか、どういう作品をどういう言葉で書こうとしているのか、どう書けば自分で納得がいくのか、激しく模索していた生真面目な時期があって、その頃は出来る限り自分の思考を言葉に置き換えていってみようとしていた。その記憶がいまも残っているので、他人にもそれを強要したりするんだけど、そのレッスンは結構役に立ってるみたいだ。

論旨を戻せば、まあ結局のところ、1度、読んでくれればいいのだ。
それだけで、軽く感想をいってもらえるような作品しか、本人に書いてる気がないので。プロの作家の作品だって、続けて2度も読んだりすることは稀だろっていつも思っている。1度さっと読んだだけだから、と遠慮がちにいわれたりしたときには。

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